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バッハ研究の権威 礒山雅さん71歳=音楽評論家 [お悔み]

バッハ研究の権威で音楽学者の礒山雅(いそやま・ただし)さんが22日、外傷性頭蓋(ずがい)内損傷のため亡くなった。71歳。通夜は3月4日午後6時、葬儀は同5日午前11時、東京都東大和市桜が丘2の208の1のセレモアガーデン会館玉川上水。喪主は妻智子(ともこ)さん。

先月27日に雪で足を滑らせ転倒、頭を打ち入院していた。

 専門はドイツ音楽史と音楽美学。国立音楽大招聘(しょうへい)教授、いずみホール(大阪市)の音楽ディレクター。日本音楽学会会長も務めた。著書に「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」「マタイ受難曲」「バロック音楽」など。毎日新聞で演奏会評やCD評を長年執筆し、毎日芸術賞の選考委員も務めた。

https://mainichi.jp/articles/20180223/k00/00m/040/207000c


バッハに対して「つまらない音」と思っていた自分に、
バッハの音楽を意識し振り向かせてくれた方だった。

「マタイ受難曲」とはあいかわらずそりがあわないけど、
それでも磯山さんは自分にとってバッハを聴く機会をくれた大恩人だった。

こういう聴き手のマイルストーンになってくれる方は、
ほんとうにかけがえのない方だと思う。

まだ年齢的にこれからも活躍されると思っていただけに本当に残念です。

心よりお悔やみ申し上げます。
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俳優の大杉漣さん死去 [お悔み]

北野武監督の作品など、数多くの映画やドラマに出演し、幅広い役柄を演じる演技派として活躍していた俳優の大杉漣さんが亡くなりました。66歳でした。

大杉さんは徳島県の出身。20代のとき、東京で劇団に入団し、俳優として本格的な活動を始めました。

ロマンポルノの作品やVシネマに出演したのち、40代で、北野武監督の映画「ソナチネ」の、凄みのある暴力団幹部の役をオーディションで射止め、演技派として知られるようになりました。

これがきっかけで、映画界で次第に知名度を増していき、北野監督の作品には、映画「HANAーBI」や「アウトレイジ最終章」などに出演して、常連となりました。

テレビドラマでも、NHKの連続テレビ小説「どんど晴れ」や「ゲゲゲの女房」など出演があいついだほか、バラエティー番組でもコミカルな一面を見せて、幅広い世代の人気を博していました。

また、3月放送予定のNHKスペシャルでも、福島第一原子力発電所の事故当時の所長役を演じるなど、ごく最近まで、俳優としての活動を続けていましたが、66歳で亡くなりました。

大杉さんは自身のブログに、3日前の2月18日の早朝にも猫の写真を載せるとともに、メッセージをつづっていました。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180221/k10011337991000.html


「シン・ゴジラ」の撮影時にお見掛けしていただけに、
なんか実感がわきません。

しかも現在進行形でテレビでも活躍していただけになおさらです。

心より哀悼の意を表します。

好きな俳優さんだっただけに本当に残念です。
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ヤルヴィ指揮N響でマーラーの7番を聴く。 [演奏会いろいろ]

2月11日(日曜日) 15:00 開演
NHKホール

パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団

(曲目)
交響曲 第7番 ホ短調「夜の歌」


じつはマーラーの番号付きの交響曲で、
この曲だけまだ実演に接した事がなかった。

初めてマーラーの交響曲を実演で聴いてから四十年以上経つけど、
とにかく今回この曲を実演で聴くのは初めて。


この演奏を聴くまで曲のタイトルが「夜の歌」ということもあり、
「明」と「暗」や「昼」と「夜」とか、
いろいろな対比やドラマがこの曲にはあると思っていたが、
今回の演奏はそういう考えを根底から覆すような演奏だった。


今回の演奏を聴いていて思った事は、
この作品にはドラマは無い。

これは20世紀にあらわれた、
「セレナーデ」であり「ディメルティメント」ではないか、
という事だった。

ようするにこれらは深く考えられた哲学的な曲ではなく、
自らの「楽しみ」のために作曲し、
マーラーが次々と沸き上がる楽想をその都度それを書きとめ、
そして興が乗ったら一気に書き上げたというそんな感じの曲であり、
結果マーラーの持っていた音楽がすべて何の縛りも無く、
大きく解放されたのがこの曲だという、
そんな感じの演奏だった。

そしてその事からか、
この曲に過去書かれた自作のいろいろな部分が散見されるような、
そういう聴こえ方が随所にあった。

また後にシュトラウスが作曲した「アルプス交響曲」に、
一部影響を与えたのではないかという部分や、
なぜこの曲をシェーンベルクが楽しく聴いたかも、
なんとなく分かるような演奏でもあった。

そして当初自分がとりとめなく感じたのは、
そういう部分につかみどころの無さを感じていたからなのかもという、
そんな事もあらためて知らされた演奏でもあった。


だからといってヤルヴィはそれを冗漫に展開したのではなく、
昨年ショスタコーヴィチの7番でみせたように、
見通しがよく無駄のない、
それでいて細かいニュアンスも大きな楽想もすべて疎かにしない、
極めて丁寧にひとつひとつの楽章を、
フォルムにも注意を払いながら見事に描く事に成功していた。


このため聴く人によってそこに情念が無いとか、
暗さやドラマが足りないと思われたかもしれないが、
自分はこの曲がこんなに心から楽しめるとは思わなかったというくらい、
最高に気持ちよくこの曲に浸ることができた。

特に第三楽章など、
聴いていて随所に思わす頬がゆるんでしまうようなユーモアも感じられ、
まさに「喜遊曲(ディヴェルティメント)」という趣のそれだった。

フィナーレの最後もじつに思い切りのいい締めくくり方で、
本当に「大団円」といいたくなるような気持ちいい演奏だった。


オケも情念やドラマで勝負するのではなく、
音そのもののもつ魅力に拘った解釈という事で、
アンサンブルと個人の腕の両方で、
極めて高いレベルを聴かせなければいけないという、
なかなか高いハードルを設けられたものの、
今回は指揮者のそれに見事に応えていたと思う。

かつてのN響ならアンサンブル的に空中分解したかもしれないが、
今のヤルヴィ指揮のN響にそういう心配は皆無。

むしろ今だからできた演奏だったといえる。


尚この日ホールは満員御礼状態だったため、
ホールの響きはいつもよりデッドになったが、
そのことによりこの曲のそれが明確に聴きとれたのは嬉しかった。


しかしマーラーのこの曲で、
こんなに楽しい気持ちになったのは本当にはじめて。

そういえばかつてある人が、
マーラーの5番を「熱狂的」、6番を「悲劇的」、
そして7番を「楽天的」とよんだ人がいた。

その気持ちが何となく分かる今日の演奏でした。
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三年ぶりに全日本プロレスの大会に行く。  [スポーツ]

2月3日横浜文体での全日本プロレスに行く。

全日.jpg

2015年の後楽園ホール以来、
全日の大会に行くのは三年ぶり。

その時の感想は、
http://orch.blog.so-net.ne.jp/2015-01-04
にあります。

カード↓


渕正信、金丸義信、ウルティモ・ドラゴン
VS
中島洋平、野村直矢、青柳優馬


青木篤志 VS 高尾蒼馬


◆GAORA TVチャンピオンシップ
KENSO VS 土方隆司


秋山準、大森隆男、SUSHI
VS
曙、入江茂弘、石川修司


諏訪魔、佐藤光留
VS
鷹木信悟、ゼウス


◆アジアタッグ選手権試合
宮原健斗、鈴木鼓太郎
VS
長井満也、南野タケシ


◆ジョー・ドーリング VS 潮崎豪

今みるとなんとも感慨深いものがあります。

因みにこの日は本来、青木篤志 vs 石井慧介 だったのが、
石井選手の欠場でカード変更、
急遽石川選手の参戦とあいなったけどこのとき石川選手が、

「やりたりない!」

と言っていたのが印象的でした。


そして今回のカードは、
http://www.all-japan.co.jp/match/2%e6%9c%883%e6%97%a5%ef%bc%88%e5%9c%9f%ef%bc%89%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e6%96%87%e5%8c%96%e4%bd%93%e8%82%b2%e9%a4%a8%e5%a4%a7%e4%bc%9a%e7%b5%90%e6%9e%9c
にあるようなものになっていました。


試合はとにかくみてて個人的には前回より満足度が高かったです。

試合内容についてはいろいろと他所で書かれているので、
ここではそれ以外の事を。

会場に入ると選手が売り場に立っていたが、
ジョーがデカい!

この人をフォールする人がいるのがちと信じられない。

大森さんやジェイクさんも元気そうで何より。

TAJIRIさんが何気なくいてこれにもビックリ。

ただ温和そうな表情の中に強い目力を感じられて、
ああやっぱり凄い人だなあとつくづく思う。

じっさい試合も青木選手より目立っていましたし、
ある意味ドミネーターといったところか。

この人が全日ジュニアに与えている影響は、
こちらの想像以上に大きいのかも。


会場内に開始十分前に入った時は、
三割位しか人が入ってなかったので、
これはちょっと悲しいなあとおもったけど、
前半終了後には7割から8割近くはいっていたように見えたので、
これには一安心でした。

第一試合、
いちばん注目したのは岡田選手。

いきなり佐藤選手や鈴木選手に突っかかっていましたが、
岡田選手のこういう火のつきがいい動きが、
じつは今の全日の活況に繋がっているのではないかと、
個人的には思っています。

岡田選手は最初登場するとタッチして交代したあとは、
多少場外戦に若干加わったくらいで、
それ以外は他の選手の動きをリング下におりて、
くいいるようにみていました。

全力で戦い全力で吸収という、
今の岡田選手のそれがよく感じられそれでした。

そしていちばん注目したのは岡田選手の側を近藤選手が通った時。

岡田選手が近藤選手の事を凝視していたのに大注目。

それは鈴木選手や佐藤選手への敵視とは違い、

「これがあの近藤修司か。」

というそんな感じでのそれに見えた。

それが畏敬の念のそれだったのか、
それとも絶対この壁を越えて見せるという、
その気概のあらわれだったのかは分かりませんが、
とにかく今までにみたことのない表情をしていました。

今回はジュニアリーグで両選手同じブロックにいるので、
どういう試合を近藤選手にしかけていくのか、
このカードちょっと注目です。


休憩時間にチャンピオンカーニバルの選手発表。

火野選手の時もかなりどよめいたが、
鷹木選手の場合は、

「ついに来たか」

というかんじで歓迎ムードのどよめきだった。

だがもうひとつのブロックの最後の選手。

ほとんどの人が永田選手あたりを予想していところに、
ノアの丸藤選手がコールされた時のその凄いほどの驚きの声。

これはかつての全日武道館大会でもめったに聞けない、
かなり密度の濃いどよめきだった。

そのあとしばらく会場のざわつきは収まらず、
隣にいた人はスマホで即この事をツイートしていた。


後半では世界タッグの後、
休憩時間もファンとやりとりしていたゼウス選手が、
ボディガー選手と次期挑戦に名乗りをあげたところで午後八時。

自分はここで時間切れとなり帰宅したが、
その後自分の嫌いな乱入があったようで、
みなくて良かったというのが本音。

それにしてもメインの三冠戦に出た二人。

あまり楽しいものではなかっただろうし、
ちょっと水を差されたような気もするところもあり、
このあたりちょっと気の毒だし、
今後一考を要してほしいところ。


全体的には、
ひじょうにアットホームな雰囲気が、
前回よりもさらに増したという感じになっている。

このままより集客が増え、
将来地上波にも再度カムバックできるような事があれば、
よりいい方へと転がっていくと思う。

しかしいい感じ、特に選手も観客も雰囲気がいい。

2月から4月にかけてけっこう全日にとって、
話題性の高い、そして勝負のシリーズが続く。

ちょっと目が離せなくなってきました。


ただ乱入はもう勘弁ですけど。




余談。

世界タッグの試合中、
場外でYOSHITATSU選手の攻撃に対し、
諏訪魔選手がしかけた机を利用した強烈な一撃。

その衝撃音が凄かったことから、
まわりがどよめき「やべえ」という声があがった。

諏訪魔選手の「看板」である「暴走」が垣間見えた瞬間でした。

しかし諏訪魔選手の攻め。

けっこう音がデカいものが多い気がする。

これも案外ひとつの売りなのかも。


それとYOSHITATSU選手。

この半年で全日ファンのそれが大きく変わった。

最初はかなり否定的なものが多かったけど、
結果を出してきたこと、
そしてしっかりとプロレスをしている事が評価されたのだろう。

新日本は最近全く見てないけど、
最後の頃はかなり覇気がなかったという。

今のYOSHITATSU選手をみてるとちょっと考えられないくらい、
とても活き活きと試合もコメントもしている。

次に三冠戦に挑戦するときが楽しみですし、
CCで丸藤選手とやるのも大注目です。
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カラヤンのサンモリッツセッション [クラシック百物語]

カラヤンが1964年にウィーン国立歌劇場の食を辞したその夏。

カラヤンは別荘のあるスイスのサンモリッツにいたが、
この年から1972年の夏まで、
カラヤンはベルリンフィルのメンバーをこの地に招き、
一緒に夏休みを楽しんだというが、
その期間の数日を利用し、
カラヤンはいろいろとメンバーとともに、
バロック音楽や弦楽合奏を中心とした曲を、
たなりの量の録音を行った。

録音会場はサンモリッツにある「ヴィクトリアザール」となってますが、
これは「ホテル レーヌ ビクトリア」というホテルの中にある劇場の事で、
このホテルの公式サイトにも
https://reine-victoria.ch/en/
「A theatre – where none other than Herbert von Karajan conducted an orchestra – and a conference room with a wonderful view towards Maloja provide an elegant setting for events of all kinds.」
というふうにその事が記述してありますし、その写真も掲載されています。

最初のセッションは8月17日から24日にかけて行われ、
バッハの管弦楽組曲の2番と3番。
そしてエディット・ピヒト=アクセンフェルトを迎えて、
バッハのブランデンブルク協奏曲の1番から5番までが録音された。
51Gp61BMVLL.jpg

6番のみは翌年2月にベルリンで録音されたようですが、
これが時間切れだったのか、夏の録音が不満だったのかは不明です。

その後1972年迄の毎年、
ほぼこの時期にカラヤンとベルリンフィルは、
いろいろと録音を行っている。

1965年は
モーツァルトのk.287、334、525、交響曲29&33番。

1966年は
フェラスとのバッハのヴァイオリン協奏曲1番と2番。
ヘンデルの合奏協奏曲5、10、12。
モーツァルトのk.247、251。

1967年は、
ヘンデルの合奏協奏曲 2、3、4、6、7、9

無題.png

1968年は、
ヘンデルの合奏協奏曲 1、8、11
モーツァルトのk.239、136~138
同ホルン協奏曲全曲をザイフェルトと。
ロッシーニの弦楽のためのソナタ 1~3、6

1969年からは録音会場がホテルから歩いて10分程の所にある、
French Church "Au Bois", St. Moritz
https://www.engadin.stmoritz.ch/sommer/en/sightseeing/franzoesiche-kirche-au-bois/
という教会に変わった。
※ひょっとしたら教会は間違ってるかもしれません。もし間違ってたら申し訳ありません。

アルビノーニの弦楽とオルガンのためのアダージョ
パッヘルベルのカノンとジーグ
ボッケリーニの小五重奏曲
レスピーギのリュートのための古風な舞曲とアリア第3組曲
モーツァルトの弦楽のためのアダージョとフーガ
ベートーヴェンの大フーガ
R・シュトラウスのメタモルフォーゼン
オネゲルの交響曲第2番
ストラヴィンスキーの弦楽のための協奏曲

というかなり幅のある曲目がこの時は録音された。

尚、この年は8月の上旬にもセッションが行われている。


1970年は、
コレルリ、マンフレディーニ、トレルリ、ロカッテリの合奏協奏曲。
ヴィヴァルディの協奏曲ものが6曲。

1971年のみEMIが録音を行い、
モーツァルトのクラリネット協奏曲、ファゴット協奏曲、
フルート協奏曲第1番、オーボエ協奏曲、
フルートとハープのための協奏曲、協奏交響曲。
ハイドンの交響曲第101番「時計」、交響曲第83番「牝鶏」

1972年は、
ヴィヴァルディの「四季」
ストラヴィンスキーの「ミューズの神を率いるアポロ」

四季.png

というように録音が行われた。


当時これらの録音のいくつかは、
「粗製乱造」とか「豪華なBGM」とか、
いろいろな言われ方をされていたという記憶がある。

自分はこれらの全てを聴いた記憶はあるが、
正直まったく思い出せないものもある。

今これらのいくつかを聴き返してみると、
リラックスした音楽と、
今からみるとけっこう個性的な演奏というかんじで、
自分でも不思議なくらい楽しく聴くことができた。


もちろんこれはかつても今も、
正統的なバッハやヘンデルとはとてもいえないし、
アンサンブルも今風の線的で清澄感のある颯爽と締まったものでもない。

ある意味メンゲルベルクやストコフスキーのスタイルとは違うものの、
大時代的でユニークな演奏という気がした。

またソロをとっている各人も、

シュヴァルベ、ツェラー、ザイフェルト、ゴールウェイ、
コッホ、ライスター、ピースク、ヘルミスと、

ベルリンフィルの好きな方ならお馴染みの名手が揃っている。

カラヤンのバロックやハイドン、モーツァルトは、
今どれだけ評価され聴かれているかはわからないけど、
録音されてから半世紀経った今の時代に聴いてみると、
とにかくかつての価値観とはかなり違った、
いろいろと感じさせられるものがあります。

興味のある方はぜひ一度聴かれる事をお勧めします。

https://www.youtube.com/watch?v=fSAKvQ2-QQg
カラヤンのヘンデル

https://www.youtube.com/watch?v=nXmObq329JA
カラヤンのモーツァルト

尚、66年と68年のヘンデルではカラヤンはチェンバロも弾いています。
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ミュンシュ死後のパリ管弦楽団 [クラシック百物語]

シャルル・ミュンシュをトップに据え、
そのアシストとしてセルジュ・ボド、
コンサート・マスターにルーベン・ヨルダノフという布陣で、
当初は順風に航海をはじめたパリ管弦楽団。

1967年10月にベルリオーズの「幻想交響曲」を録音。

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翌月には旗揚げ公演を行い輝かしく船出した。

その後名盤とといわれたブラームスの交響曲第1番、
翌年1968年9月から10月にかけてラヴェルやオネゲルを録音した。

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だがその翌月6日、
ミュンシュは北米ツアーの最中に、
リッチモンドのホテルで心臓発作により急逝した。

ミュンシュの体調はすでに以前から陰りがみえており、
1966年の来日公演でも、
公演によっては指揮台横に補助段をつけていたのがわかる。

ここからパリ管の苦悩がはじまった。

たった一年で最高のトップをいきなり失ったそれは、
オケの面々にとってはかりしれないショックがあったと思われる。

ミュンシュ没後の翌月、
バルビローリがドビュッシーの「海」と「夜想曲」を録音。

これと翌年のボドの録音は当初ミュンシュが指揮する予定だったのかも。

翌年ボドが「展覧会の絵」や「マ・メール・ロア」を録音、
そしてカラヤンが音楽顧問となり繋ぎとして登場した。

だがパリ管による、
直後のマゼールの指揮によるリヒテルとのセッションは、
リヒテルに言わせればそれは指揮者には関係の無い、
とにかく最悪のセッションになったとか。

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これが当時パリ管の将来への不安や苛立ちから来たものかは分からない。

ただ今これらを聴くと、
言われたような悲惨な出来には感じられないものの、
マゼールにいつもの強力なコントロール感が、
あまり感じられないというところは気になった。

その翌月カラヤンと録音したフランクは名演だった。
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だがカラヤンはあくまでも繋ぎであり代行、
そういつまでもこの状況が続くわけではない。

このフランクが録音された翌1970年の2月には、
ワイセンベルクとカラヤンの指揮でチャイコフスキーの協奏曲が録音され、
4月には初めての日本公演が行われた。

しかしこの日本公演時、
パリ管に同行した二人の指揮者を名指しこそしなかったものの、
役不足な指揮者の下でやることの不満が一部に伝わったという。

その後この年の秋には小澤とのチャイコフスキー、
そして翌年にはカラヤンがラヴェルを録音、
そして秋からはショルティが音楽監督に就任、
カラヤンはこのオケの地位から去っていった。


因みに憶測ですが、ボドのセッションとカラヤン時代の録音のいくつかは、当初ミュンシュが録音する予定のものだったのではないかと個人的には思ってます。


ただ後任のショルティはかつてパリ管の前身、
パリ音楽院管弦楽団とのチャイコフスキーセッションで、
稀にみる喧嘩セッションを行ったこともあり、
それが長期の関係になるとはあまり思われておらず、
録音もわずかにリストの交響詩が遺されている程度にとどまった。

むしろこの時期はロジェストヴェンスキーが指揮したロシア管弦楽曲集、
ロストロポーヴィチがヨルダノフをソロにおいた「シェエラザード」、
そして小澤によるチャイコフスキーの「悲愴」他といった、
他の客演指揮者による一連のロシア音楽の方が有名だったかもしれない。


そして1975年から当時32才だった若きバレンボイムがトップに就任した。

この関係は1989年までの長期に渡り、
いちおう場繋ぎ的な状況は脱した。

録音会社もグラモフォンが引き受け、
安定した録音活動もできるようになった。

このバレンボイム以降、
パリ菅は概ね安定した時代だったといえる。

だがその評価はかなりまちまちで、
未だにパリ管の最盛期はミュンシュ時代で、
最高の録音は旗揚げ公演前に録音された、
ベルリオーズの「幻想交響曲」という意見が根強いのも事実。

ただ今のパリ管はハーディングという逸材がトップにいることで、
その評価は極めて高い。

ハーディング時代がこのオケの最盛期といわれる事を期待したい。
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ベルリンフィルのある時期の録音をみて思った事。 [クラシック百物語]

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カラヤンが指揮したベートーヴェンの交響曲全集。

上のそれは1961年末から1962年にかけて録音されたもの。

カラヤンが初めてベルリンフィルを指揮して録音した、
いわゆる「全集」もの。

1955年にベルリンフィルのトップに着任し、
7年目にしてようやく完成されたもので、
今でもその評価は高く、
フルトヴェングラー時代からの名手も多数在籍していた事もあり、
ベルリンフィルの今とは違うそれを愉しめるという意味でも、
けっこう人気のある全集です。

もちろんそこには当時のカラヤンのスタイルが明確にあらわれた、
「カラヤンのベートーヴェン」もしっかり刻まれていて、
前任者フルトヴェングラーのそれが入り込んだような、
中途半端なそれは感じられない。

「さすがカラヤン、自分の音が出せてようやく録音したのか」

と、その我慢強く時期を待ち続けたそれに感心したものでしたが、
最近「ちょっと待てよ」というかんじになってきた。


というのも、
ステレオ録音が本格化した1957年以降、
ベルリンフィルを指揮して何人もの指揮者が、
かなりのベートーヴェンの交響曲を録音していた。

クリュイタンスが全9曲、
フリッチャイが4曲、
ヨッフムが3曲、
ベームとマゼールが2曲、
カイルベルトとケンペが1曲。

7人の指揮者で計22曲が1957年から1961年迄の間に行われている。

表にするとこんなかんじになる。
BEE1.jpg

ak=クリュイタンス
ej=ヨッフム
rk=ケンペ
ff=フリッチャイ
kb=ペーム
lm=マゼール
jk=カイルベルト
hk=カラヤン
※マゼールの6番は1959-1960にかけての録音。
※クリュイタンスの8番は1957と1960に、分けて、もしくは二度の録音、または一部録り直し、したものをひとつに編集したとのこと。


特に偶然かもしれないけど、
前任者フルトヴェングラーが得意にしていた、
3番、5番、7番、が3人から4人で各々録音されたが、
これは他の番号より録音が多い。

もちろんこれらの曲は人気があり、
カタログを増やし売り上げを伸ばそうとしていこうという、
当時のレコード会社の方針と、
数社がこれらの録音に絡んでいたことで、
このような事が起きた事は確かだろう。

ただはたしてそれだけだろうか。

これから先は個人的な憶測です。


じつはこれらの録音。

ひょっとしてカラヤンが望んだ事ではなかったかという事。
(カラヤンにとって願ったり叶ったり、渡りに船だったという意味です。)

ひとつはこれらの録音により、
さらに今まで以上にベルリンフィルの知名度が上がり、
それらの録音もよく売れるだけでなく、
今後の自分の録音の売り上げにもプラスになるだろうということ。

そしてもうひとつ。

じつはこちらの方がカラヤンにとって重要なのかもしれないが、
前任者の色をこれらの録音の執拗な積み重ねにより徐々に薄め削り取り、
この機会を利用し結果的に更地にして、
自分の音楽を色濃く投影できるようにしようと、
そうカラヤンが考えていたのではないかという事。

しかもコンサートでは自らもベートーヴェンを指揮しているので、
さらにそれに輪をかけた状況になっている。
(じっさい1957年のベルリンフィルとの来日公演でも、3番、5番、7番を各々複数回指揮している。)

因みに3番は、クリュイタンス、フリッチャイ、ケンペ、ベーム、
5番は、クリュイタンス、マゼール、フリッチャイ、
7番は、クリュイタンス、ベーム、カイルベルト、フリッチャイという、
まったくタイプの違う名指揮者が次々と録音していったため、
より更地にされたような気がしてしまう。


そしてこれらの録音が終了すると同時に、
カラヤンは1961年末から1962年にかけて一挙に全集を録音し、
その後カラヤンがベルリンを去るまで、
このオケでベートーヴェンを録音したカラヤン以外の指揮者というのは、
クーベリックを除くとおそらくいなかったような気がする。

これと同じような事は、
ブラームス、シューベルト、モーツァルト、シューマン、
そしてブルックナーやドヴォルザークの一部でもそれはみられる。


このあたりはたして実際はどうなのだろう。

カラヤン自身が手を下したというわけではないようなので、
このあたりの事はもはやわからないけど、
何かとにかくカラヤンがこの機会をうまく利用し、
自分のオケをつくる事に成功したような気がしてしまう。


もっともこれらの事は、
結果的にカラヤンとの聴き比べとなり、
よりシビアな聴き方をされるリスクも生じるけど、
そこの部分には自分に絶対の自信を持っていたのだろう。

そういう意味では、
カラヤンの凄さをあらためて感じさせられたのも確かで、
そんな事を考えながらこの演奏を聴くと、
また違ったものが感じられる気がします。

LP時代に一時代を築いたこの全集も、
すでに録音されて半世紀以上が経ち、
カラヤンも今年(2018)生誕110年を迎えます。
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ムラヴィンスキー来日(1981、1986) [ムラヴィンスキー]

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※クリックすると、もう少し鮮明になります。

5月29日:神奈川県民ホール
チャイコフスキー/交響曲第5番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

6月1日:群馬県民会館
モーツァルト/交響曲第39番
プロコフィエフ/交響曲第6番

6月4日:東京文化会館
モーツァルト/交響曲第39番
プロコフィエフ/交響曲第6番

6月17日:名古屋市民会館
モーツァルト/交響曲第39番
プロコフィエフ/交響曲第6番

6月20日:福岡サンパレス
チャイコフスキー/交響曲第5番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

6月23日:フェスティバルホール
チャイコフスキー/交響曲第5番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

6月26日:NHKホール
チャイコフスキー/交響曲第5番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番


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9月25日:昭和女子大人見記念講堂
[ショスタコーヴィチ生誕80周年記念演奏会]
ショスタコーヴィチ/交響曲第6番
チャイコフスキー/交響曲第5番

10月1日:シンフォニーホール
ショスタコーヴィチ/交響曲第6番
チャイコフスキー/交響曲第5番

10月19日:サントリーホール
チャイコフスキー/交響曲第5番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

じつはこの来日公演の前、
「ウィーンのムラヴィンスキー」
という1978年に楽友協会大ホールで収録された、
LP四枚分のライブ録音が登場した。

音質は些か残念なレベルではあったけど、
それでも久しぶりのステレオによる新録音で、
しかも曲目も定評のあるものばかりということで、
コンサートに行っていない人たちにも、
近年のムラヴィンスキーの円熟ぶりを知らしめた事もあり、
この時の来日公演は久しぶりに話題性の高い公演となりました。


ですがご存じのように、
この1981年はオーケストラそのものが来日中止。
代わりにシモノフとキタエンコ指揮のモスクワフィルが来日。

ただこれではあまりにも役不足となったためか、
この公演の中止により長らくレニングラードフィルを招聘元し続けた、
新芸術家協会が倒産。

このため秋のカラヤン指揮ベルリンフィルの来日公演が、
あわや吹っ飛ぶのではないかと危惧されましたが、
これを別の所が代行し事無きを得るという、
かなり荒れた展開が繰り広げられてしまいました。


この来日中止は日本のモスクワ五輪ボイコットが理由といわれていますが、
1979年の亡命事件時に当局とムラヴィンスキーが、
売り言葉に買い言葉で「言ってはいけない」言葉を両者が発し、
このため党員でなかったムラヴィンスキーに、
オケのメンバーの多くに渡航ビザを発給しないという、
あり得ない蛮行を直前に当局がしかけたというのが、
公演中止の実情だったようです。


その後ムラヴィンスキーもレニングラードフィルも来日の予定はなく、
来日がありそうだった1983年も来日は無く、
正直この時点で個人的にはもう来日は無いと覚悟はしていました。

ですがその後ゴルバチョフ政権になると、
それまで途絶え気味だったソ連のオーケストラの来日が活発化し、
1986年には、

モスクワ放送交響楽団が11年ぶりの来日。
ソビエト国立文化省交響楽団が初来日。
そしてレニングラードフィルが7年ぶりの来日。

しかもそこにはムラヴィンスキーの名前もあり、
これが最後だろうという事もあって、
同時期にヨッフム指揮コンセルトヘボウや、
チェリビダッケ指揮ミュンヘンフィル、
そして結局は小澤征爾に変更になったものの、
カラヤン指揮ベルリンフィルの来日があったものの、
それらと比べてもこの前評判はかなり高いものがありました。

そしてこの当時、
メロディア系を中心とした、
ステレオ録音のCD14点をカタログにあげていたビクターは、
当時販売していたVHSとVHD用に、
この公演の収録も予定していました。


ですが残念ながら1985年頃から体力の衰えが見えだしたムラヴィンスキーが、
この来日前に体調そのものも好調とはいえないこともあり、
結局来日取りやめとなってしまいました。

本人はその後コンサートを開けるぐらい回復したものの、
日本行きはやはり負担が大きすぎるということだったのでしょう。

その後翌年三月に行われたコンサートを開くも、
体調は芳しくなく、
晩秋に予定されていたコンサートも結局キャンセル、
翌1988年1月19日に亡くなられました。

このときはNHKのニュースにもなり、
また毎日新聞はかなり大きな訃報を当時掲載しています。

翌年レニングラードフィルは、
1989年にテミルカーノフとマリス・ヤンソンスの指揮で、
ムラヴィンスキー没後初めて来日しますが、
その演奏は全体的にどこかちぐはぐで、
決して誉められたものではありませんでした。

ですがムラヴィンスキーのレパートリー中、
彼が特に得意として何度も演奏された曲を演奏すると、
その時だけムラヴィンスキーの音が突然鳴り出すという、
驚くべき事にも何度か出会いました。

それを聴いた時、、
最後にもう一度だけムラヴィンスキーを聴く事ができたようで、
オーケストラに深く感謝をしたものでした。


その後メンバーも大きく入れ替わり、
都市名の変更ととものにオケの名前もかわり、
文字通り「レニングラードフィル」は消滅しましたが、
その時の録音がいくつも記録して残っているのはありがたいことです。

今後はヨーロッパ各地での録音が発掘され、
耳にできる機会が増える事を願ってやまない次第です。


以上で〆


2018年1月19日。ムラヴィンスキー40回目の命日に寄せて。
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ムラヴィンスキー来日(1977、1979) [ムラヴィンスキー]

em77.jpg

9月25日:神奈川県民ホール
ワーグナー/マイスタージンガー、第1幕への前奏曲
ワーグナー/ローエングリーン、第1幕への前奏曲
ワーグナー/タンホイザー、序曲
ブラームス/交響曲第2番

9月27日:東京文化会館
ワーグナー/マイスタージンガー、第1幕への前奏曲
ワーグナー/ローエングリーン、第1幕への前奏曲
ワーグナー/タンホイザー、序曲
ブラームス/交響曲第2番

9月30日:福岡市民会館
ウェーバー/オベロン、序曲
シューベルト/交響曲第7番「未完成」
チャイコフスキー/くるみ割り人形、抜粋

10月4日:広島郵便貯金ホール
シベリウス/トゥオネラの白鳥
シベリウス/交響曲第7番
チャイコフスキー/交響曲第5番

10月6日:フェスティバルホール
ワーグナー/マイスタージンガー、第1幕への前奏曲
ワーグナー/ローエングリーン、第1幕への前奏曲
ワーグナー/タンホイザー、序曲
ブラームス/交響曲第2番

10月8日:フェスティバルホール
ウェーバー/オベロン、序曲
シューベルト/交響曲第7番「未完成」
チャイコフスキー/くるみ割り人形、抜粋

10月10日:名古屋市民会館
ウェーバー/オベロン、序曲
シューベルト/交響曲第7番「未完成」
チャイコフスキー/くるみ割り人形、抜粋

10月12日:東京文化会館
ウェーバー/オベロン、序曲
シューベルト/交響曲第7番「未完成」
チャイコフスキー/くるみ割り人形、抜粋

10月16日:新潟県民会館
シベリウス/トゥオネラの白鳥
シベリウス/交響曲第7番
チャイコフスキー/交響曲第5番

10月19日:NHKホール
シベリウス/トゥオネラの白鳥
シベリウス/交響曲第7番
チャイコフスキー/交響曲第5番


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5月16日:宮城県民会館
グラズノフ/交響曲第5番
チャイコフスキー/眠れる森の美女、抜粋
チャイコフスキー/フランチェスカ・ダ・リミニ

5月21日:東京文化会館
ベートーヴェン/交響曲第6番
ワーグナー/トリスタンとイゾルデ、前奏曲と愛の死
ワーグナー/ジークフリート、森のささやき
ワーグナー/ワルキューレ、ワルキューレの騎行

5月25日:金沢厚生年金会館
グラズノフ/交響曲第5番
チャイコフスキー/眠れる森の美女、抜粋
チャイコフスキー/フランチェスカ・ダ・リミニ

5月28日:フェスティバルホール
ベートーヴェン/交響曲第6番
ワーグナー/トリスタンとイゾルデ、前奏曲と愛の死
ワーグナー/ジークフリート、森のささやき
ワーグナー/ワルキューレ、ワルキューレの騎行

6月2日:名古屋市民会館
ベートーヴェン/交響曲第6番
ワーグナー/トリスタンとイゾルデ、前奏曲と愛の死
ワーグナー/ジークフリート、森のささやき
ワーグナー/ワルキューレ、ワルキューレの騎行

6月5日:神奈川県民ホール
ベートーヴェン/交響曲第6番
ワーグナー/トリスタンとイゾルデ、前奏曲と愛の死
ワーグナー/ジークフリート、森のささやき
ワーグナー/ワルキューレ、ワルキューレの騎行

6月8日:NHKホール
グラズノフ/交響曲第5番
チャイコフスキー/眠れる森の美女、抜粋
チャイコフスキー/フランチェスカ・ダ・リミニ


1977年公演は、
そのプログラムの質量、さらに公演回数からみて、
ムラヴィンスキーが最も充実していたツアーといっていいのかもしれません。

特に今回は前回かなわなかったオールドイツ音楽プロもあり、
ムラヴィンスキーの魅力前回となったものでした。

ただ面白いのはこの年が、
べートーヴェン没後150年という事もあって、
この年来日した各オーケストラ、

スイトナーとベルリン・シュターツカペレ
ベーム&ドホナーニとウィーンフィル
ハイティンクとコンセルトヘボウ
ショルティとシカゴ
カラヤンとベルリンフィル

この各団体がかならずベートーヴェンの交響曲をプログラムに組み込んでいたのに対し、
ムラヴィンスキーは四度の来日中、
なぜかこの年だけベートーヴェンを指揮しませんでした。

このあたりがいかにもという気はします。

因みにムラヴィンスキーが10月に東京滞在時、
じつは読売日響に客演するため初来日していた、
セルジュ・チェリビダッケも東京にいました。

おそらく両者とも同じ文化会館で演奏や練習をしているため、
ホールに告知掲載されている、
互いの公演のポスターを目にしている可能性があり、
この二人が互いをこのときどう意識していたのか、
今でもとても気になっています。


尚1975年来日時には、
偶然同時期にバイエルン放送響と来日していたクーベリックと再会、
彼のコンサートの成功に祝電を送ったとのことです。


そしてその一年半後の1979年来日公演。

曲目がかなり地味という事と、
バーンスタイン指揮のニューヨークフィルの、
その絶賛された来日公演が終了したばかりということもあり、
最も話題的に地味になったツアーだったと思います。

しかも来日前には、
長年このオケのコンマスを勤めていたリーバーマンが亡命、
そしてさらに拙いことに、
この公演の6月8日公演の直前には、
オケのメンバー二人が亡命してしまうという事態が発生、
これが後々大きく尾を引くこととなってしまいます。

文化会館でムラヴィンスキーが指揮をした時、
客席からたまにムラヴィンスキーの指揮棒がある高さにくると、
その指揮棒の先がキラっと光ったのが今でも印象に残っていますが、
それもこの公演で見納めになってしまいました。

因みに人づてに聞いた話では、
このとき演奏された「ワルキューレ」が、
ある会場で最後物凄い大リタルダンドをかけたため、
とんでもなく巨大な演奏になってしまったらしいのですが、
終演後指揮者がなかなか客席をふり返えらなかったため、
「ひょっとして振り間違え?」
という噂がたったとか。

はたして事の真偽はいかに。
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ムラヴィンスキー来日(1975) [ムラヴィンスキー]

em75.jpg

この公演。

前回とは違い前年には早くも発表され、
比較的余裕をもって進められているかのように、
当初そうみえていたのですが、
なんと今度は一部公演日でなかなか曲目が決まらない。
(上記の△印の公演)

主催者の新芸術家協会に聞いても

「先方から何の連絡も来ない」

とお手上げ状態のようでした。

その後やっと曲目が決まり無事発売されたかと思うと、
今度はベートーヴェンの交響曲第5番等が演奏される日のうちの3公演が曲目変更。
(上記※印)

後半がすべて今回の公演に入っていなかった、
チャイコフスキーの交響曲第5番にすべて変更された。

このため当時の「音楽の友」のチケット売買掲示板には、
かなりこの該当日のチケット売りますというそれが、
かなり大量にでまわっていました。


これがなぜこんなに曲目決定の遅れや変更が、
この公演でこうもあったのかということを、
後にムラヴィンスキーが来日歓迎のレセプションで、
その理由の一端を語ってくれました。

これは当時の毎日新聞に写真入りで紹介された記事にその事が書かれていますが、
それによると

「来日前に体調を崩してしまい、ショスタコーヴィチの交響曲第8番を仕上げることが出来ずもってくることができなかった。」

という発言。

おそらくこのため手慣れたチャイコフスキーの5番を公演に入れ、
ショスタコーヴィチの8番が発表前に5番に変えるなどの、
プログラムの組みなおしや、
代替の曲目選定に時間がかかったみたいです。


ただ「日本だからまた来たのです」ということもこのとき話ているように、
この来日は本人の強い希望なくしては実現しなかったようです。

最終的には以下のような公演となりました。

5月11日:神奈川県民ホール
プロコフィエフ/交響曲第6番
ベートーヴェン/交響曲第5番

5月13日:東京文化会館※
モーツァルト/交響曲第39番
チャイコフスキー/交響曲第5番

5月19日:宮城県民会館
モーツァルト/交響曲第39番
チャイコフスキー/交響曲第6番

5月21日:NHKホール△
プロコフィエフ/交響曲第6番
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番

5月23日:フェスティバルホール
モーツァルト/交響曲第39番
チャイコフスキー/交響曲第6番

5月26日:広島郵便貯金ホール
プロコフィエフ/交響曲第6番
ベートーヴェン/交響曲第5番

5月30日:岡山市民会館
プロコフィエフ/交響曲第6番
ベートーヴェン/交響曲第5番

6月1日:フェスティバルホール※
モーツァルト/交響曲第39番
チャイコフスキー/交響曲第5番

6月4日:名古屋市民会館※
モーツァルト/交響曲第39番
チャイコフスキー/交響曲第5番

6月7日:東京文化会館
モーツァルト交響曲/第39番
チャイコフスキー/交響曲第6番


この時は前回と違い放送等は一切ありませんでした。

演奏は個人的には、
曲により若干村はあったものの、
自分はかなり満足度の高いものとなりました。

ただこの時の「音楽の友」における評はいまいちで、

「厳しさも一歩踏み外すと魅力のないものになる。」

というそれが語られたりしていました。

もっとも音楽の友とムラヴィンスキーはいまいち相性というか、
いろいろとついてない事が多く、
1979年にはムラヴィンスキーの公演の評は、
締め切り等の関係もあったせいか掲載されず、
(アルヴィド・ヤンソンス公演時の評はある)
また四度の来日時に、
ムラヴィンスキーの顔が表紙を飾ることは一度もありませんでした。


この公演は前評判はそこそこあったものの、
話題性としては若干最後地味になったところがあり、
また録音も1973年来日時以降新しいものはなく、
むしろ古い録音が日本で初発売され来日記念盤になるという、
なかなか話題づくりに苦しむ部分もあったようですが、
それが後々来日公演のチケットが入手しやすくなるという、
こちらとしてはありがたい事に繋がっていくことになります。

ある意味「好きな人達」だけが集まるという、
「定期公演」的な雰囲気がその後は会場にけっこう感じられる、
そんなものへとなっていきました。
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