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マーラーの「復活」の自筆譜競売へ。 [クラシック百物語]

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【8月18日 AFP】クラシック音楽界の巨匠グスタフ・マーラー(Gustav Mahler、1860~1911年)の希少な直筆の楽譜が競売にかけられることになり、香港(Hong Kong)で17日、公開された。

 競売を主催するサザビーズ(Sotheby's)によると、この全232ページの楽譜は交響曲第2番「復活(Resurrection)」の完全な自筆譜。英ロンドン(London)で年内に競売にかけられ、落札予想価格は手書きの楽譜としては史上最高値の350万ポンド(約4億5600万円)。

 オーストリアの作曲家・指揮者マーラーは10曲の交響曲を手掛けたが、サザビーズによると、完全な楽譜が競売にかけられたことはこれまでに一度もないという。「これは本当に優れた歴史上の偉人の手書きの楽譜を手にする一生に一度あるかないかというチャンス」と担当者はコメントしている。(c)AFP
http://www.afpbb.com/articles/-/3097863?pid=


凄いニュースだけど、
こういのって、
国と企業等がお金出し合って然るべきところで保管、
資料館等で常設展示、
中身をすべてネットでみることができるという具合に、
人類全体の遺産として管理公開すべきではなかろうか。

凄いニュースだけど、
ちょっと複雑な気持ちです。

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バカどもに蹂躙される演奏会 [クラシック百物語]

音楽評論家の東条碩夫さんが、
その演奏会のリポートを書き込んでいくサイトがある。

自分のように演奏会に行かなくなった人間にとって、
それはとてもありがたいサイトで、
いつもけっこう楽しく読ませていただいている。


だが最近その東条さんの文に、
ここ数年一部の聴衆のマナーに言及することが増えてきている。


しかもときおり、
かつてみられることのない厳しい発言もみかけるようになった。

そして最近ついにこういう発言があった。

「「トリスタン和音」が解決し、消え去るように終ったあとの感動的な静寂を破った狂気じみた下品な声のブラヴォーの主は、全く人間性を疑われるべき、音楽テロリストと称してもいいほどの輩だが、不快な体験の記憶は早く消し去り、演奏の素晴らしさだけを心に残すことにしよう。」
http://concertdiary.blog118.fc2.com/blog-entry-2483.html

クラシック音楽の聴衆のマナーとモラルの低下は、
ここ数年特にいろいろと言われるようになっている。


しかもその問題行為をしている人は、
初心者や若い人たちではなく、
すでに中高年といわれる人であり、
クラシック音楽をある程度聴いている人たちがほとんどと聞く。

こういう人たちは、
そこそこプライドが高いせいか、
あまり人の意見を聞かない傾向がある。

だがだからといってやっていいことと悪いことがある。


自由と無秩序を単純にただはき違えているのか、
それとも「精神の叫び」ならすべてが正当化されると、
本気で勘違いしてるのかはわかりませんが、
鉄オタが線路内に不法侵入して列車を止める蛮行とこれはまったく同じ。

いやもっときついことを言わせてもらうなら、
炎上覚悟で言ってしまうが、
これはオウムのサリンやISの自爆テロと、
正直行動原理はまったく同じといっていいと思う。

自分がスッキリすればあとはどうなってもいいのか。

他人の感動をぶち壊し、
心の中を土足でズケズケと踏み込むような、
そういう行為をしてもいいのか。

自分以外はみんなクズとか、
自分は他人より感受性豊かな優れた聴き手だからしかたないとか、
そういう傲慢な思考がベースにあるから、
他人のことなどおかいましなのではないか。

そんな人としておかしな考えに凝り固まった、
自分よければすべてよしみたいな、
そんなバカで非常識な考えで演奏会になど絶対来るな。

聴衆というより、
それ以前に人としてやりなおしてから来い。

おととい来やがれだ。


多くの評論家がこういうことに対し、
「声明」を連名で出さなければいけないのかもしれないが、
ただそれはそれで情けないし救いがたい話ではありますし、
ごくごく一部のおかしな人たちへのメッセージということを思うと、
そんなことしても肝心の当人たちには、
まったく効果が無いのは火をみるより明らかだ。


いったいいつまで、
こういう一部の輩の暴挙に、
その他大勢の真面目な聴き手が巻き込まれ、
我慢しなければならないのか。

サッカーみたいに、
こういう人はフーリガンとみなして出禁にしなければならないのか。

ただそうするにしても、
こういうものの線引きってとても微妙でデリケートな問題だし、
そう簡単にできないのはこちらも分かっているし、
だからこそこの問題が今の今まで、
手がなかなかつけられないということにもなっている。


それにしてもどうしてこんなことになってしまったのだろう。

おそらくどこかにそういう聴き手に共通した、
致命的な勘違いの元凶があるような気がするのだが、
それがなかなかわからないというのも我ながら情けない。

一度こういうこに関して、
精神医療の関係の方から意見を聞いてみたいものです。


ああしかし、
こんなことを言わなければならない時代になったとは…
東条さんの嘆きが聞こえてきそうです。
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戸田弥生&野原みどりデュオ・リサイタル [クラシック百物語]

2016 5/20 19:00
会場/MUSICASA(ムジカーザ)

(曲目)
ドビュッシー : 亜麻色の髪の乙女
ラヴェル : ツィガーヌ
プロコフィエフ :バレエ 「ロメオとジュリエット」からの10の小品、より二曲。
ショパン : ワルツ 第5番 Op.42
ショスタコーヴィチ : ヴァイオリン・ソナタ


戸田弥生(Vn)
野原みどり(Pf)


コンサートは昨年11月の浜松でのチェコフィル以来。


まず面白かったのはこの二人の音楽。

戸田さんは熱く聴き手まで燃えつくそうとするのに対し、
野原さんは熱いがその炎は冷たく感触は正反対といっていい。

この二人がひとつの目標に向かってひたすらスパークする。

それ丁々発止といっていいのかもしれないし、
隙あらば自分がという、
まさに「せめぎあい」という言葉がピッタリの演奏だった。

前半の「ツィガーヌ」などまさにそれ。
戸田さんが前半ソロで激しいまでの情念全開で音楽をたたきつける。

もうはっきりいってこれで終わってもおかしくないくらいの、
白熱的なソロをとりまくった。
こうなってしまうと野原さんの第一音が大注目だったが、
野原さんは決然と、
それこそ腹をくくったかのような強い音で音楽をはじめた。

まさにこれぞせめぎあいだ。

これは戸田さんのリサイタルではない。
戸田さんと野原さんのデュオによるリサイタルだ。

なのでソロと伴奏という単純な図式のリサイタルではない。
だからこれは当然の結果といえるだろう。

それは冒頭のドビュッシーから明白だったし、
ピアノの蓋が大きく開けられていたことからも、
その意図がみてとれたものでした。


じつは自分は左からヴァイオリン
右からピアノが聴こえるという面白い座席にいた。

このため二人が前後になってというのではなく、
左右に対峙したような感じで聴くことになったため、
よりその対象が明確に聴き取ることができた。

それはまるでひとつの共通したお題による、
二つのリサイタルを同時に聴いているかのようで、
過去あまり例のないこれは経験だった。


そんなデュオの後、
野原さんがプロコフィエフとショパンを弾く。

この中で特にプロコフィエフは素晴らしかった。
ひじょうに力強い、
ただしそれでいて一筋縄ではいかないプロコフィエフの、
その独特のどこ冷めていながらも詩情あふれる響きには、
野原さんの音質はじつによくあっていた。

ここで15分の休憩。

前半約30分。
時間は短いがひじょうに濃密な時間だった。

後半はショスタコーヴィチ。

これが凄かった。

というより前半とこの二人の関係に変化が起きた。

前半はそれこそせめぎあいとなったこの二人だが、
ここではこの二人の間に一種の間合いが生じていた。

それは剣道における間合いに近いもので、
とにかく互いの間に、
これ以上は半歩たりとも踏み込めないという、
ひじょうに緊張感のある間合いができていた。

このためこのショスタコーヴィチは、
この間合いを境に二つのまったく異質の音楽が、
ただひとつの頂点を目指すかのように展開していった。

それは互いの音楽を横目でみながら、
ひたすら己のスタイルによって、
音楽の核へ踏み込んでいくというかんじで、
息詰まるほどのそれは緊張感にみなぎった音楽を形成していった。


これがもし前半と同じせめぎあいに徹していたら、
ショスタコーヴィチにしてはやや単調になっていたかもしれない。

二人がこの緊張感にみちた間合いをつくったことによって、
この演奏はとにかく驚くほどこの曲を多面的かつ、
ダイナミックなものに仕立て上げて行った。

正直これほどの緊張と大胆を兼ね備えたショスタコーヴィチは、
ムラヴィンスキー、ラザレフ、井上道義といった、
巨匠名匠によるそれくらいしか記憶に無い。

考えてみるとこの日の翌日5月21日は、
自分がまだショスタコーヴィチ在世時に、
彼の交響曲第5番をムラヴィンスキーの指揮で聴いた日でもある。

あのときショスタコーヴィチはリアルタイムの人間だった。
だが今年ですでに彼が無くなり41年が経った。

この間ショスタコーヴィチの演奏の多くは、
ソ連当時の旧態依然なものに引きづられたものが多かった。

だが今日のそれは、
そういうものから解放された、
旧ソ連の怨念や情念とは関係の無い、
21世紀に足場をもった純然たる音楽そのものだった。


自分がこの日の演奏に大きく感銘を受けた理由のひとつに、
そういう部分があったことも確かだろう。

とにかくこの日のコンサートはひじょうに濃密で、
深く心に刻み込まれるものだった。

因みにアンコールが一曲あったけれど、
自分はそれがまったく記憶に残っていない。

ショスタコーヴィチ終了後、
自分はここで演奏を聴くことを、
無意識のうちにストップしてしまったようです。

できればショスタコーヴィチ終了後退出したかったのですが、
ホールの関係上それが無理だったのが残念でした。

できれば今度はこのお二人で、
フランクのソナタをぜひ聴いてみたいものですがはたして。

以上です。


それにしてもちょっと眠れそうにないくらい、
気持ちが高揚させられました。

凄いです。
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ニューヨークフィルの次期音楽監督にヤープ・ファン・ツヴェーデン決定 [クラシック百物語]

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Jaap van Zweden wordt dirigent van het New York Philharmonic, een van de meest gerenommeerde symfonie-orkesten ter wereld. Van Zweden (55) volgt Alan Gilbert op, die het orkest sinds 2009 leidt en eind volgend jaar terugtreedt. Over zijn opvolging werd al bijna een jaar lang gespeculeerd. Van Zweden begint in het seizoen 2017-2018 en wordt een jaar later chef-dirigent.

http://nos.nl/artikel/2083173-jaap-van-zweden-naar-new-york-philharmonic.html


ヤープ・ヴァン・ズヴェーデンとは驚いた。

現在いくつかポストを持っているが、
そこから一足飛びでアメリカのトップオケのひとつのシェフになった。


そんなに派手ではないけど実力のある指揮者という、
そんなかんじを受けていたけど、
かなりアグレッシブな感じの演奏もしているということなので、
そういう意味では面白い人選なのかもしれないが…。


しかしこのオケとの客演はともかく、
果たしてトップに立つとなるとどうなんだろう。


ひじょうに興味深い、
正直にどっちに転ぶか分からないけど、
とにかくここはひとつじっくりと様子をみたいところです。


MTTじゃなかったんですねえ。

とにかくちょっと驚いてます。


http://nyphil.org/
NYPOの公式サイト
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年末に第九を聴くと…。 [クラシック百物語]

いつもあることを思い起こしてしまう。

それはシューベルトとブラームスのこと。


ブラームスはシューベルトがとても好きだったという。
ドヴォルザーク、グリーグ、ヨハン・シュトラウス二世も好きで、
親交ももっていた。

こうしてみると彼はメロディメーカーにとにかく惹かれ、
少しでも彼らのようになりたいと思っていたんだろうなあという気がするが、
残念ながらシューベルトのみ自分が生まれる前に亡くなったので、
会う事すらできなかった。

そんなブラームスの第一交響曲の第四楽章、
例の第九のメロディに似た部分があるが、
シューベルトのグレイトの第四楽章にも第九のメロディに似たところがある。
で、この二つをよく聞くと、
シューベルトは第九のメロディの前半、
ブラームスはその後半が似ている。

それを思ったら、
この曲に込めた両者のベートーヴェンへの敬愛の念もそうだけど、
ブラームスのシューベルトに対する限りない敬愛の念もとても強く感じられた。

そういえばベームがウィーンフィルと1975年に来日したとき、
この二曲を日本公演にもってきていた。

このあたりをベームは意識していたのだろうか。


第九を聴いた翌年に完成したシューベルトのグレイト。
ベートーヴェンの没後50年を翌年にひかえた年に初演されたブラームスの第一。

年末の第九の時期に、
自分がいつも思い起こしてしまう事柄です。






年末に書き込むつもりがすっかり忘れてました。
あと350日も書き込むのを待つのもあれなので、
三が日に書き込んでしまいました。
かなりケッタイな感じとなってますがご了承ください。
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オペラ講座 「日本オペラ事始」に行く [クラシック百物語]

オペラ講座 「日本オペラ事始」

というのがあった。

全五回
の内容は以下のとおり。

幕末横浜の外国人居留地にはじまって、上野、丸の内、赤坂、浅草、日比谷と舞台を移しつつ発展する、日本のオペラ上演。帝国劇場から浅草オペラをへて藤原歌劇団、二期会の創立にいたる歴史を、具体的に学びます。

(概要)

まず欧米のテノール歌手の歴史をとりあげ、オペラにおけるその重要性を学びます。続いて、日本の興行界に大きな影響を与えたアメリカの、そのプリマドンナの典型として、ソプラノ歌手ベヴァリー・シルズの生涯を追います。後半は前2回を踏まえ、日本にオペラがどのように根づいたかを、丸の内と浅草、女性歌手の登場、そして日本初のスター・テノール、田谷力三と藤原義江の生涯から追います。

opera.jpg

とても興味深い内容がならんでいる。

自分のようなオペラ音痴が興味津々というからさぞや盛況…

…と思ったらこれがちょっと寂しいことになってしまった。


正直これは内容に対しての
発信先との感覚のズレがうんだもののような気がする。

つまり日本における初期のオペラ動向、
特に浅草あたりがからんできたものは、
レベルとして拙劣下品、
内容としては色物同然という、
そういうかんじに多くのクラシック、
そしてオペラファンはみているのではないかという、
そんな感じが強くしたものだった。

だからもし今回の講師に、
昭和初期の芸能や浅草の演芸史の専門家が加わり、
そちらの分野に情報を発信していたら、
おそらく満員御礼になっていただろう。

藤原義江が「我らのテナー」といったのは、
別にクラシックファンにむけてではなく、
あれこそ一般大衆に向けてのそれだったからだ。


そういう歴史もひとつの歴史であり、
そういう部分にも目を向け興味を抱けないというのは、
これもまた日本の音楽土壌の限界というか、
西欧(特に独墺)への礼賛過多というか、
そういうものに対する劣等感みたいなものが、
影響しているといっていいのかもしれない。


日本のアニメが隆盛を誇ってるのは、
例え半世紀前の、
今よりはいろんな意味で劣っているものにさえ、
どこかで強いリスペクトを、
作品もしくは制作関係者に持ち続けているという、
そういう部分が作り手にも受け手にもある。

だけど日本のクラシックはどうかというと、
作り手はまだそうでもないかもしれないが、
受け手にあたる聴衆にはどこかそういうものが希薄だ。

技術的に劣るもの古いものは価値なしというのか、
減点法的な価値観というのだろうか、
なにかあるところから、
ズバッと切り捨てているような感じがする。

そしてそれが、
日本のクラシック音楽が、
外付けされただけの文化みたいな、
そういう感じを受けてしまう原因なのかもしれない。

かつて外国の評論家とのシンポジウムで、
日本の音楽は「形」ばかりにこだわりすぎで…
みたいな発言があり、
音楽評論家の東条碩夫さんが、
それに強く異を唱えたということがあったと記憶している。

おそらくこのとき外国の評論家からみた日本のそれは、
日本土壌や根っこの部分と、
今日本が演奏しているそれの間に、
妙な乖離感みたいなものを感じていたのではないだろうか。

そのためいくら優れていても、
外の形はたしかによくできているが、
そこへ供給されている実がどこからきているのか。

はなはだこれまたとってつけたように、
他国の語法にそのまま乗っかったか、
それこそインターナショナル基準みたいな顔した、
ただのステレオタイプの語法のみしか、
それができるための大元になかったとしたら、
この言い分にも正直一理あるといえるかもしれない。

それを思うと、
日本人は自分たちの感覚、
特に西欧音楽に対しての今の感覚や価値観が、
どういう歴史を経て成長発展、
そして日本に広まっていったのか、
そこのところを知らなさすぎるというか、
あえて目を背けているのでないかという、
そんな感じも強くした。


話は大きく脱線したけど、
今回の講義の人の少なさをみて、
自分はそれがすべてではないとしても、
日本のクラシック音楽の、
ときおり感じる「砂上の楼閣」感のようなものの、
その理由の一端が垣間見られたような気がした。

だからそれだけに今回のそれは、
正直もっと多くの人に見聞してもらいたい内容だった。

ただし逆の発想で、
これらをライトユーザーの人たち、
例えば5月GWの有楽町あたりで、
オープンスペースでやったりすると、
違った形でオペラに興味をもち、
さらには西欧の音楽をより身近に感じ、
音楽のある生活をこれからもおくっていくという、
そういうきっかけになるような気がする。

自分のようにオペラがそんなに得意ではなくとも、
これだけ楽しめたということは、
そういう要素が少なからずあるということだろうし、
山崎さんあたりの本音は、

「じつは音楽はこんなに愉しく身近なものなんです」

というものなのかもしれないし、
このときの講義も、
つまるところそこが終着点だったのかもしれない。


と、
最後は適当に無責任な憶測をぶちまけましたが、
とにかく今回の講義はそういうふうに自分には感じられましたし、
とても有意義なものでした。
(ただ体調不良のため一回休んでしまいました。残念)

しかしかつての浅草って、
自分なんか想像するよりも、
けっこうダイナミックでカラフルだったようです。

それが分かっただけでも自分は大満足でした。


〆です。

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第4回クラシックソムリエ検定試験ゴールドクラスの結果がきた。 [クラシック百物語]

あまりに予想通りで笑ってしまった。

結果は

700点

またこういう綺麗な数字ですか、
といった具合で、
ほんとまたしてもあまりにもお約束通りになってしまいました。


これで、800、600、700、と三年連続端数無しなんで、
ピタリ賞とかくれないかなあ…。


今回は残念ながら平均より2点ほどショートしましたが、
過去のそれをみてもあんまり自分はそういうことに関係ないみたいです。

ただこれでやっと800を出せる目安がついたので、
来年はちょっと期待しようかなと思ってます。

因みに今回は合格者はそこそこいるようです。

受かったみなさま、おめでとうございます。


尚、来年からは受からなければ報告しません。

というのも自分はいいんですが、
(正直言うとそんなに良くも無いですが…)
受験生が時期的にここを偶然みてしまうと、
けっこう人によっては気にする人もいるようなので…。

というところでご報告まで。
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荒れる演奏会場 [クラシック百物語]

「東条碩夫のコンサート日記」にこういうページがあった。

http://concertdiary.blog118.fc2.com/blog-entry-2301.html

この最後のところに、

「ところで、これは不愉快な話だが、毎回のように演奏開始ぎりぎりになって大きな荷物を携えて1階最前列の席に入って来る人の行動は、目に余る。
 今夜のように、オーケストラが既にテューニングを始めているにもかかわらず、悠々と当然のようにその前を歩いて席につくなどという態度は、演奏家に対する敬意を著しく欠いているだろう。
 先日のトリフォニーホールでも、メネセスがバッハを弾くために出て来てお辞儀をしているその前を横切って歩いていたが、言語道断、演奏者に対して無礼も甚だしい。猛省を促したい━━といっても、彼がこんなブログを読んでいるわけはないだろうから、ここで何を言おうと詮無いことであろう。見たところ、客席前方に知人もよくいるようだから、だれかまず知り合いの人が注意したら如何なものか。 」

というものがあった。

東条さんが個人に対しこのようなことを書くのは極めて異例だ。

自分もこの人物を知ってはいるが、
見苦しいという以外はそれほどのものを感じていなかった。

おそらく近年その振る舞いが酷くなってきたのだろう。

これに対しこのサイト史上最高ともいえる、
たいへんな量のコメントがついているが、
そけを読むとどうも問題はこの人だけではないようだ。

一部の聴衆に歓声や拍手、さらにはその行動が、
演奏者にではなく、
自己満足のためになってることを自覚していないという、
はなはだ残念な人たちがいるということだ。


自分の気持ちを聴衆に伝えるのは勝手だが、
それに夢中になって他の人の迷惑を顧みないなど言語道断、
聴き手に上下関係や優劣など存在してなどいない。

音楽の前ではすべての人が平等なのだ。

一部の人の自己満足のために、
その他大勢が我慢を強いられたりするなどあってはならないことだ。

自由と無秩序というものの区別がこの人たちにはついてないのだろうか。


人の犠牲があたりまえになったり、
声のでかい者が幅をきかすような、
そんなことがまかり通るようになったら演奏会はもうおしまいだ。

高齢化により柔軟な考えができない、
頑迷な人たちが増えてしまったためなのだろうか。


そういえば大洗でも、
見るに堪えない酷い行為があったということを最近ネットで目にしたが、
それらも若い人ではなく、
いい中高年だったのにはさすがに言葉もなかった。


かつてはあまり感情を表に出すのが下手といわれた日本人だが、
下手という意味ではいまだにそれは変わってないようだ。


これからどんどんこういう事が増えていくのだろうか。

なんか憂鬱です。


一度この件で評論家や演奏家、
それにホールの関係者や一般の聴衆を集めてシンポジウムでも開いてみたら?

例えば5月の有楽町で。



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ひさしぶりにコンサートに行く (チェコ・フィルハーモニー) [クラシック百物語]

11月2日。
昨年3月以来ほんとうに久しぶりのコンサート。
場所は浜松のアクトシティ大ホール。

浜松は初めてということでコンサート前に楽器博物館に行く。

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http://www.gakkihaku.jp/

今年(2015)で開館20周年とのこと。

これがまたいろいろと興味深いもの満載で、時間が経つのもあっという間でした。

馬頭琴が弾けるコーナーがあったので試しに弾くものの、ちっとも音がでやしない。かつてチェロを弾いていた感覚でやっていたのだが、弓の持ち方を変えてもぜんぜん音がキコキコ音しか出ない。最後の方でようやく鳴らすことはできたが、ものすごく弓にも弦にも強い力を入れなければならないことがわかった。

じっさい馬頭琴はものすごく遠くまでよく響く楽器なので、いろいろとテクニックや体力も必要なのだろう。

他にも博物館の方によるオルガンの解説などもとてもわかりやすく勉強になるなどとにかくいい所でした。大人400円ということなので浜松に行ったときはこのあたりが好きな方はぜひ一度立ち寄ることをお勧めします。

このあとホールへ行く。当日券購入だったけど、けっこう空席は少なかった…と思ったら両サイドの上階席はクローズしていたようでした。

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演奏会の内容。

指揮:イルジー・ビエロフラーヴェク
ピアノ:ダニール・トリフォノフ
管弦楽:チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

(曲目)

スメタナ:連作交響詩「わが祖国」より第四曲 「ボヘミアの森と草原から」
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲 第2番 Op.18
(ピアノ:ダニール・トリフォノフ)
(アンコール)
J.シュトラウス(D.トリフォノフ編曲):「こうもり」より 序曲

~休憩~

ベートーヴェン:交響曲 第5番「運命」 Op.67
(アンコール)
メンデルスゾーン:交響曲 第5番 ニ長調 Op.107「宗教改革」より第3楽章
スメタナ:歌劇「売られた花嫁」より「スコーチュナ」

サントリーホールで10/28と10/31に行われたコンサートを足して二で割ったようなプログラム。

最初の曲は11/4の「わが祖国」全曲のデモンストレーションのような演奏で、正直素晴らしくよくまとまってはいるけど、それ以上の印象はありませんでした。ただこちも久しぶりの演奏会なのでいまいち聴く態勢ができていなかったのかも。

続くトリフォノフのラフマニノフは第一楽章ではオケに呑み込まれ気味ではあったものの、第二楽章以降は弱音の美しさを軸に立て直し見事な演奏を聴かせてくれていました。

ただ聴いた方の話によると、10/31のこのコンビによる同曲でも第一楽章でも同じ傾向だったのに、オケのプルトを削ることなく、そのままこの日もこういう演奏を続けたのはちょっと疑問。トリフォノフからは何も指揮者に注文とかは出さなかったのだろうか。

このあとトリフォノフはアンコールで自らのアレンジによる「こうもり」を演奏。これがもう個性と技巧が大爆発の大炸裂。あまりの演奏に聴衆はポカーンでしたが、舞台上のチェコフィルメンバーはブラボーと足踏みによる大喝采。オケにとっては位置的にかぶりつきとなったためテンションがマックスになってしまったようでした。

オケがソリストにここまで熱狂的なそれをおくるのは珍しく、トリフォノフが今回この曲を演奏したのは10月29日のリサイタルのアンコールの最後に〆として演奏していたところをみると、チェコフィルとの三日間の連続共演で、この曲をアンコールとして演奏したのはこの日が初めてだったのかも。舞台端でこれを立って聴いていた指揮者のビエロフラーヴェクはこの演奏どう思って聴いていたのでしょうか。

このあと休憩後にベートーヴェン。

これがじつにバランス感覚といい見通しといい素晴らしく行き届いた演奏で、清潔だけど綺麗ごとに終わらない、ベートーヴェンが古典的手法で書き上げた変奏曲風交響曲の頂点ともいうべきそれを、じつに見事に表現していた。

確かにそこには「運命」も攻撃的なそれも無かったけど、こういうやり方でこの曲を演奏されたらもうこれはこれでいう事は無いだろう。

聴衆の反応もまさにそのような曲に対してのそれだった。

その後アンコール。

最初のメンデルスゾーン。聴いたことのあるメロディなのに「宗教改革」と気づかなかった。後にわかったとき、わからなかったことにちょっとショックだった。こういう抒情的に美しい演奏でこの曲を聴いたことがなかったためなのだろうか。

そして最後のスメタナ。これはもう絶品。この曲をチェコフィルの実演で聴くのはこれが初めて。すべてにおいて「このカードをきれば世界中の誰にも肩をならばせない」というかんじの名演奏でしたし、こういう曲を持つオーケストラに正直自分は羨望の念を深く持たされたものでした。

こうして久しぶりの演奏会は大満足で終了。帰途につきました。

それにしても浜松のホールといい楽器博物館といい、とてもいい雰囲気でした。

できたらまた訪ねてみたいところです。

以上で〆
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マイニンゲン宮廷楽団のこと。 [クラシック百物語]

マイニンゲン宮廷楽団。
この名前をご存知の方がどれくらいいるだろう。

1690年に創設され、
19世紀の後半に当時の大指揮者、
ハンス・フォン・ビューローにより一時代を築き、
リヒャルト・シュトラウスを繋いだのち、
当時最大のブラームス指揮者といわれ、
作曲者本人とも親交があった、
フリッツ・シュタインバッハが赴任していたときは、
1885年にはブラームスの指揮で、
彼の最後の交響曲となった第四番を初演している。

この時期のこのオケはかなりの精鋭が揃っていたようで、
ブラームスを中心とした音楽祭、
さらには街にも本人を招聘したりなどして、
かなりの活況をオケも街も呈していたようです。

だが二十世紀にはいり、
シュタインバッハがケルンに去ると、
その隆盛にも影がみえはじめ、
マックス・レーガーが赴任した頃には、
かなり状況が捗々しくない状態で、
オケの存立のため必死に活動したレーガーも、
1914年それが原因だったのか急死してしまう。

さらには同年音楽を含む芸術に理解のあった、
ザクセン=マイニンゲン公ゲオルク2世も死去。

そして第一次世界大戦の勃発と、
オケにとって解散も余儀なくされる事態となった。
(一説には事実上解散状態で、楽員も生活に困窮するものもいたとか。)

第一次大戦後、
ザクセン=マイニンゲン公国が廃止され、
新たに成立したテューリンゲン州が、
同楽団を所有する形で存続となり、
その後いくつかの危機的状況を乗り越え、
現在に至っているという。

因みに1999年から2004年には、
かのキリル・ペトレンコもここのオケに赴任している。


というかんじなのですが、
正直、自分はこのオケは、
すでに音楽の表舞台にその名前をみかけることもなく、
録音もみかけないという状況だったということもあり、
第二次大戦前にすでに消滅していたと思っていました。

ですが現在もかつてのようではないものの、
演奏活動を続けているということを聞いたとき、
俄然このオケの今に興味がわいてきたものでした。

ですが来日するわけでもなく、
話題にもまったくのぼらないこともあり、
なんともどうしようもなかったのですが、

2009年に前年に
マイニンゲンから車で一時間ちょっとのところにある、
フルダ大聖堂でのライブ録音が発売された。

曲目はブラームスのドイツ・レクイエムで
フランツ=ぺーター・フーバー指揮
マイニンゲン宮廷楽団
フルダ大聖堂聖歌隊
ナターシャ・ユング(S)
ペーター・シェーネ(Br)
2008年10月25日録音

というもの。

0834_Brahms_neu.jpg

おそらく現在日本で入手ができる、
同オケ唯一のCDだろう。

で、これを聴いてみたのですが、
どちらかというと、
最初これは合唱団を聴くためのものかな、
というかんじだった。

静堂の美しい響きと、
なかなかしっかりとした清澄なコーラスが、
じつにこの曲にマッチしており、
なんとも心洗われるブラームスとなっている。

これに比してオケはあまり印象に残らない。

素朴で力強いというくらいだろうか、
正直録音のせいもあるかもしれないが、
一部の管楽器はちょっとその音の汚れと、
ややイージーとも感じられるそれに、
ちょっと疑問を感じてしまった。

だが曲がすすむにつれ、
オケ全体のもつひたむきさというか、
非常に芯のある意志の強い響きのようなものが、
しだいに地味ではあるがあらわれはじめ、

「ひょっとするとこれがブラームス本来の響きかも」

と感じられるところすらあった。

確かにベルリンやウィーンのような、
ああいう行き届いた極上のそれとは違うが、
素朴で飾り気のない、
そんなブラームス像がこの演奏から、
なんとも強く感じられるものがあった。

とくにときおり聴かれる
渋い弦のビブラートがなんともいい味出してます。

演奏時間は70分にも満たないものですが、
決して急ぎ足の演奏というわけではなく、
むしろじっくり聴かせるタイプの演奏という、
そんなかんじのものとなっているのも面白い。

清澄で癖のない合唱が見事なだけに、
余計このオケの特長が聴き取れたのかもしれないが、
とにかくなんとも心穏やかな響きに満たされた、
そんなかんじのオケに聴こえたものでした。

ただこれにはオケの人数の少なさも、
要因としてあるのかもしれません。

ハッキリとは分かりませんが、
CDをみると8プルトくらいで、
全体50人前後くらいの編成でしょうか。

しかしこのCDを聴いてると、
一度このオケを生で聴いてみたいと、
とにかく思ってしまいますが、
ちょっとそれはやはりいろいろと無理なのかも。

光藍社あたりなんとかしてくれそうな気がするのですが、
どうなんでしょうか。

また来日が無理なら、
せめて初演したブラームスの第四交響曲を、
CDに録音してくれないものでしょうか。

ただ交響曲だとオケの粗がもっとでちゃうかなあ。

なんとも最後は複雑な物言いで〆

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