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イシュトヴァン・ケルテスのこと [クラシック百物語]

イシュトヴァン・ケルテス
(Istvan Kertesz, 1929年8月28日 - 1973年4月16日)

彼の名前を聴くとクラシックファンの多くは、
ウィーンフィルと1961年に録音した、
同オケへのデビュー録音となった、
あのドヴォルザークの「新世界より」を思い出すと思う。

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この録音は当時まだ三十代前半だった、
若き日の颯爽としたケルテスによる、
そのじつに爽快な演奏が話題となり、
未だにウィーンフィルの「新世界」の、
代表盤のひとつといわれるほどの評価を得ている。


だがケルテスのそれ以外の盤となると、
ケルテスのファン以外の人は、
一瞬考え込んでしまう人が多いと思う。

それは当時の、
そして今のケルテスの立ち位置によるところが大きい。


ケルテスは1929年生まれというから、
プレヴィン、ハイティンク、ドホナーニ、
さらにはアーノンクールあたりと同年齢で、
デッカで同時期に活躍していたマゼールよりひとつ年上、
ロンドン交響楽団で一緒に活躍していた、
コリン・デービスより二つ年下になる。

だが彼は不幸にして、
1973年4月に海で事故により亡くなった。

彼が上記した指揮者に比べ、
知名度が低い原因のひとつはこれだが、
正直に言うとじつはそれだけではない。


ケルテスはコダーイの門下だったが、
1956年に亡命し西側で活動を本格化させる。

デッカと契約した彼は、
ウィーンフィルとの「新世界」で絶賛される。

そしてロンドン交響楽団とも良好な関係を築き、
1964年に逝去したモントゥ―の後をつぎ、
同オケの首席指揮者に就任し、
1964年のロンドン響とのi二度目の来日公演にも、
コリン・テービスとともに同行している。


だがここからが問題だった、
オーケストラとは良好な関係だったものの、
公演における聴衆の反応と入りが、
前任者ほど芳しくなかったとの理由もあり、
たった三シーズンで解雇されてしまった。

もうひとつ音楽監督をつとめていた、
ケルン歌劇場とは良好な状態だったにもかかわらず、
このメジャーオケでの「失敗」はいろいろとあったようで、
クリ―ヴランドでの楽員からの圧倒的な支持にもかかわらず、
セル亡き後定期会員の減少に苦しんでいた事務方には、
ロンドンで「失敗」したケルテスを選ぶ選択肢はなく、
オケは集客力のあるマゼールをベルリンからよんだ。

その後ケルテスは1973年に、
カイルベルト亡き後首席指揮者が空席だった、
バンベルク交響楽団のそれに就く予定だったが、
それは先の事故ではたせなかった。

だがバンベルクには悪いが、
やはりケルテスが都落ちしたという印象は否めない。

またロンドン響は彼と同い年のプレヴィンがその任に就き、
ロンドン響とはその後10シーズン以上関係が続くこととなったのも、
ケルテスの評価にプラスにはならないものだった。

だがそんなケルテスにデッカもウィーンフィルも、
その関係を断つことはなかった。

それはおそらくこの指揮者の人柄と音楽性の賜物だろう。

ウィーンフィルはケルテスと「新世界」を録音した翌年には、
モーツァルトの33番と39番を、
さらに翌年にはシューベルトの「未完成」や「グレイト」、
それにモーツァルトの36番その他。
そして1964年にはブラームスの交響曲第2番を録音した。

このあたりのモーツァルトやブラームス
さらにはドヴォルザークあたりも、
カラヤンとの組み合わせによる、
交響曲集のような企画だったのかもしれないが、
このあたりの録音が後々ケルテスにとって伏線となっていく。

ウィーンとは1965年のモーツァルトのレクイエム以降
(これもカラヤンがウイーンを去った為に代行したのかも)
ロンドン響との仕事に集中したためウィーンとの録音が途絶えるが、
ロンドン響を辞した後、
デッカはウィーンフィルとの録音を開始する。

1970年に以前録音したシューベルトのそれがらみで、
交響曲全集の企画を立ち上げ4番と5番を録音、
そして翌年に残る1番から3番と6番を録音し、
ウィーンフィル初のシューベルト交響曲全集を完成させる。

これらは全集として日本でも1972年秋には発売されている。

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さらにその1972年から今度は2番がすでに録音されているブラームスと、
やはり何曲か録音されているモーツァルトの、
その各々の他の交響曲の録音がはじまる。

1972年にブラームスの4番、
そしてモーツァルトの25.29.35.40番を11月に録音、
翌年の2月から3月にかけてはブラームスの1番と3番、
そして「ハイドン変奏曲」の終曲を除くすべてが録音された。

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このころにはこれらの録音や、
ロンドン響との数々の録音によって、
ケルテスの名前や評価が、
以前よりもかなり上がっていたという。

ハイドン変奏曲の終曲のみが、
何故このとき録音されなかったのかは分からないが、
ここでいったんセッションはお開き、
これがウィーンフィルにとって、
この指揮者と最後の録音になるとは、
この時誰が想像しただろう。

ケルテスはイスラエルフィルに客演するためテルアビブに向かい、
そして公演は成功を収めたという。

事故はその直後におきた。

当時このニュースはかなり大きなものとなった。


ウィーンフィルが録音されなかった「ハイドン変奏曲」の終曲を、
5月に指揮者無しで録音したのは、
この指揮者への深い哀悼の意のあらわれだったのだろう。

これらの録音は翌年6月に日本でもセットとして発売となった。


だがケルテスの死後、
せっかく上がった名声が急速に静まっていくのを感じたのは、
自分だけではないだろう。

ウィーンフィルによる録音は、
その後アバド、クライバー、ベーム、バーンスタインが、
次々と数を重ねていった。

しかもそのレパートリーのいくつかは、
ケルテスのそれとかぶるものが多く、
ブラームスの全集もベームやバーンスタインが、
モーツァルトの数曲もベームやレヴァイン、
同じくシューベルトもベームやクライバーによって、
曲目がかぶらないものであっても、
次第に忘れられてしまうようになっていった。

また他の録音も、
他の指揮者や団体の録音が増えるにつれ、
次第に脇へと追いやられていくようになった。

さらに彼が亡くなった1973年というのが、
指揮者が多く亡くなった年というのも不幸だった。

クレッキ、ホーレンシュタイン、クレンペラー、
イッセルシュテット、アンチェル、近衛秀麿、
他にも合唱指揮者のクルト・トーマス、
そしてシゲティ、カザルス、ブルーノ・マデルナも、
みなこの年に亡くなられたため、
ケルテスのニュースが永く目立つということがなかった。


そして年月が経ち、
いつの間にかウィーンフィルとの「新世界」くらいしか、
国内盤はみかけない時期すらあった。

この頃にはケルテスは、
早くして亡くなった中堅指揮者という、
そんな地味なイメージになっていた。

そしてそれは今でもあまり変わってはいないと思う。

とても残念な話です。


だがそんなケルテスの録音を、
今あらためて聴いみると、
驚く程不出来なものがなく、
またオケのモチベーションが高いことが伺える。

ロンドン響とのものもそうだけど、
ウィーンフィルがこれほど出来不出来なく、
全力を傾注した演奏を、
ひとりの指揮者でこれほど残しているのも特筆すべき事だろう。

フラームスは四曲とも、
かなりの水準の出来となっている。

一部であまり評判のよくない一番も、
自分には外連味なく真っ向勝負でいった潔さと、
それだけではない詩的な美しさも大事にした名演に聴こえる。

他の三曲は、
一番よりもさらに気合の入った劇的な表現で切り込んでいて、
しかもそれが空回りしていない。

これだけ熱気と推進力を持ちながら、
地面にしっかりと足をつけている演奏というのも珍しい。

これはシューベルトの全集にもいえるが、
こちらは曲のせいもあるけど、
より小回りとキレのいい、
しかもパンチが随所に効いた見事な演奏となっている。

シューベルトの4番や6番など、
これほど音楽と指揮者が一体化した演奏となると、
もうどうこう言うレベルのものではないと思う。

しかもそれらが、
ときおりピリオド系の演奏を先取りしているかのような、
そんな趣もたたえているせいか、
今聴いてもまったく古さを感じさせないものがある。

この時代を超越して、
古さを感じさせないのもケルテスの特長のひとつ。

これはロンドン響とのドヴォルザークやコダーイにもいえる。

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そしてこれを当時のウィーンフィルとやったことも、
指揮者を選り好みするオケというだけでなく、
60年代から70年代というと、
ボスコフスキー、ヴェラー、ヘッツェルと、
とんでもないコンマスがいたウィーンフィルだけに、
また凄い事だといえるだろう。

因みに1973年の3月から4月にかけで、
ケルテスが最後の録音をした直後のウィーンフィルが、
日本で公演を行っている。

指揮はこれが初来日だったアバド。

もしこれがケルテスだったら、
この公演どんな評価になっていただろう。

また彼があと十年から二十年健在だったら、
彼の経歴はその後どうなり、
またどのような録音が遺されていったのか、
今考えるとほんとうに残念でならない。

また日本にも何度も来日してくれていただろうし、
バンベルク響だけでなく、
本当にウィーンフィルとも来日していたかもしれない。

そうなれば日本でのそれも、
また違ったものになっていただろう。

またもっと長生きしていれば、
ひょっとするとデュトワやベルティーニのように、
日本のオケのどこかにポストとして収まっていたかもしれない。

実際彼が客演した日本フィルでは、
ケルテスの評価は極めて高く、
そんな話があったらどこのオケも大歓迎だったろう。


だがそれはみな夢のまた夢。

今は遺された録音がすべて。

できればケルテスの録音が忘れられることなく、
末永く多くの人たちに聴き継がれる事を願いたい。


因みにケルテスが日本フィルに客演したのは、
1968年の5月でこれが再来日にして最後の来日。

当初はロンドン響との来日予定だったのが、
不況等の影響でロンドン響の来日が中止になったため
ケルテス単独での来日となったとのこと。


演奏されたのは二種類のプログラムで、

ベートーヴェン/エグモント、序曲
バルトーク/管弦楽のための協奏曲
ベートーヴェン/交響曲第7番

コダーイ/ハーリ・ヤーノシュ、組曲
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第5番(ロベール・カサドシュ)
ドボルザーク/交響曲第9番

前者の公演は映像として残っており、
現在もDVDで発売されている。

そしてこれからほどなくして、
ケルテスはロンドン交響楽団を去ってしまう。



因みに余談だが、
ケルテスがあと十年以上健在だったら
こんな音楽を奏でていたのではないかと、
個人的に思う録音がひとつある。

それは

モーツァルトの三つの行進曲より第1番ハ長調K.408の1。

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1963年の11月という、
ケルテスとしては早い時期の録音だが、
その堂々とした風格と音楽の充実感と密度がすばらしい。

ウィーンフィルもこの録音の三年前の、
あのクナッパーツブッシュの「軍隊行新曲」を思わせるような、
そんな輝かしいベストの出来を示している。

この数分の小曲ひとつに、
ケルテスの未来が詰まっていると言っても過言ではないものがある。

ぜひひとりでも多くの方に聴いてほしい演奏です。



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「ほとんど誰も観られなかった《マリインスキー劇場初来日100周年展》」を聞く。 [クラシック百物語]

「ほとんど誰も観られなかった《マリインスキー劇場初来日100周年展》」

1916(大正5)年6月16日から三日間、東京の帝国劇場で初の「露國舞踊」公演が催されました。出演者はエレーナ・スミルノワ、ボリス・ロマノフ、オリガ・オブラコワの三名。ピアノ伴奏による小規模な催しでしたが、彼らはペテルブルグの帝室劇場(マリインスキー劇場)バレエ団の正団員であり、このときチャイコフスキーの《白鳥の湖》の一部(「二人舞踏」すなわちパ・ド・ドゥー)や、サン=サーンスの《瀕死の白鳥》などが初めて踊られた意義は、日本バレエ史に特筆すべきものといえましょう。

 昨年の12月26日、この初来日公演100周年を記念する重要な展覧会「純粋なる芸術」が東京・狸穴のロシア大使館で開催されました。新発見の史料をふんだんに用いた展示は、マリインスキー劇場の現総裁・芸術監督ワレリー・ゲルギエフの肝煎りでまずペテルブルグ、次いでウラジオストクで公開され、最終的に東京へ巡回したものです。当日は数十名のバレエ関係者を招いた内覧会が開かれ、その様子はNHKのTVニュースでも報道されました。にもかかわらず、その後ロシア大使館は「ここは美術館ではない」との理由から展示を一般公開せず、観覧依頼や問い合わせにも応じなかったため、この貴重な展覧会は、バレエ史の専門家を含め、ほとんど誰の目にも触れずに幻のまま幕を閉じました。残念というほかありません。

 そこで今回の桑野塾では、ロシア大使館側とかけあって、この展覧会を30分間だけ観る機会を得たという沼辺信一氏に、展示内容とそこから明らかになった新事実、さらには来日公演を観た100年前の日本人たち(大田黒元雄、山田耕筰、石井漠、与謝野晶子、有島武郎ら)の反応について、詳しく報告してもらいます。

http://deracine.fool.jp/kuwanojuku/

という内容で沼辺 信一さんの講義を聞く。

以前沼辺さんの

「大田黒元雄と『露西亜舞踊』──1914年のバレエ・リュス体験」

を聞いてその情報量の多さに度肝を抜かれたが、
今回もあっという間の三時間。

濃密すぎてはたしてここに書いていいのかどうか迷う事がほとんどで、
さてどうしたものかと困るほど。


ただ今回いちばんここに書きたいこととして、
この展覧会が日本のみ異常な形での公開だったという事。

地元マリンスキー劇場ではこの展覧会、
2016年6月15日という、
100年前の日本公演初日と同じ日に
御大ゲルギエフ自らも参加しその開会式が行われ、
翌日からは一般にも開放、
7月29日からはウラジオの「マリンスキー劇場・沿海州劇場」でも、
同じように開催されたとのこと。

ところが何故か日本では、
初日に一部マスコミとバレエ関係のライターやブロガーのみ招待し、
一般にはついに公開しないまま、
しかも期間のほとんどが年末年始で閉館していたという、
ほんとになんとも不思議な事とあいなった。


これは本来これより少し前に来日した、
プーチン大統領の手土産のひとつだったものの、
窓口が大使館になってしまったため、
こういう不可思議な公開になったのではという、
そういう推測がこのときでた。

実際どうなのだろう。


ただこれには劇場側はかなり不本意だったらしく、
仕切り直しで再公開したい意志を表明しているとのこと。

今年(2017)12月にはマリンスキーがゲルギエフと来日するので、
これを知ったらさぞや落胆してしまうことだろう。

どこかなんとかしてくれないものだろうか。


さて講義の内容はこの展覧会の全貌と、
その内容についてはかなり突っ込んだ内容を前半。

後半は百年前の公演についての、
当時の反響等からの考察という構成。

この公演そのものは、
いろいろと書籍にも掲載されており有名とのことで、
来日メンバーはダンサーとして、
エレーナ・スミルノワ、ボリス・ロマノフ、オリガ・オブラコワの三名。
それにピアノのカルル・ヴァン・ブルフというもの。

特にスミルノワとロマノフは、
バレエ・リュスにも参加していたマリンスキーの花形。

ただ当時これは急遽決まったため、
1916年6月16日から18日という週末興行だったものの、
かつてのプロコフィエフの来日公演同様、
マチネ公演となってしまったためたいへん人の入りに苦労し、
(午後一時開演)
最終日は一部演目を入れ替えると新聞発表されたものの、
会場の帝国劇場の1/3ほどしか人が入らなかったと、
当時の証言が残っている。

もっともスミルノワ一行の待遇はとてもよかったらしく、
帝劇の関係者に三越ヘ買い物に連れて行ってもらったりしています。

またスミルノワ達は日本の踊りもいくつかこのとき覚えたらしく、
「隅田川」や「北洲」あたりを取り入れた舞踊を、
日本から帰国した後演じていたようです。


因みにこの公演には、
当時の本野一郎在ロシア日本大使あたりが関係しており、
日露が蜜月期だったことや、
大正天皇即位式にロシアの大公が出席した事等の関係で、
政治的なものによりこの来日が実現。


初日の公演内容は、
前半七曲の後休憩二十分。
そして後半十曲という内容で、
だいたい二時間くらいだったらしく、
三日間おそらくこの曲数に近いもので行われたと思われます。

このときいろいろと資料が配られましたが、
さすがにそれらすべてをupするのは拙いので、
その中から当時の初日と二日目共通と思われる、
日本語プログラムのみあげておきます。

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最後に、
このときの模様を日本側から撮影していたらしく、
宮内庁にそのことを問い合わせしたものの、
お答えがこなかったとのこと。


宮内庁には以前、
バックハウスの宮内庁での演奏会の件で、
丁寧に対応していただいた記憶があるので、
かなり難しい件だったのだろうか。

このあたりもいつかは明確になってほしいところ。


とにかくいろいろと勉強になる濃密な三時間でした。





余談

この公演、
当時反響がほとんど無いまま終了したというのが定説で、
はたしてそれは本当なのかという考察もあった。

金~日の三日間。
最終日ホールの1/3しか入っていなかったという事を考えると、
これは完全に興行としては失敗という意見が出た。

ただ個人的には、
まだバレエ・リュスの情報が入り始めた頃とはいえ、
バレエそのものがまだまともに演じられたことのない日本で、
この頃の帝国劇場は約1900というキャパに、
その1/3、約600人くらいは来場していたということを思うと、
交通機関も今とは違う事から、
よくこれだけの人がむしろ観に来たという気もする。

しかもその中には音楽や舞踊関係だけでなく、
与謝野晶子や有島武郎、それに高田保も来場していたのだから、
狭い範囲なりにある程度話題のあった公演だったような気がする。

このあたりさらに研究されることだろう。


尚、1916年というとロシア革命の前年ということで、
来日としてはギリギリのタイミングといえたかもしれない。


宮沢賢治がボストン交響楽団の商業用初録音となる、
チャイコフスキーの交響曲のレコードを聴いて、
その内容に驚きクラシック音楽にのめっていくよりも前、
「いとう呉服店少年音楽隊」こそ結成されていたものの、
日本にまだ本格的交響楽団どころか、
洋楽の国内盤レコードすらまともに発売されていなかった、
そんな時代の話です。


「いとう呉服店少年音楽隊」
1911年に発足し後に東京フィルハーモニーへと発展する。
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「巨匠不在の時代」という大嘘。 [クラシック百物語]

2002年2月にギュンター・ヴァントが逝去したとき、
それを機会に多くの音楽ゴロが、

「最後の巨匠が逝った」
とか
「巨匠の時代は終わった」
そして
「巨匠不在の時代」
とほざきはじめ、
一部では今もそれを恥知らずに公言している輩がいる。


この時点では事実上引退していた人も含めると、、
クルト・ザンデルリンク、ペーター・マーク、フルネ、サヴァリッシュ、
ジュリーニ、コリン・デービス、プレートル、プーレーズ、スイトナー、
マゼール、アバド、マリナー、アーノンクール、スヴェトラーノフ、シュタイン
そしてカルロス・クライバーもいた時代だ。

もちろんこれに、スクロヴァチェフスキー、ブロムシュテット、
ハイティンク、インパル、ロジェストヴェンスキー、エリシュカ、
フェドセーエフ、メータ、プレヴィン、小澤、トゥルノフスキー、シュナイト、

という現在80才を超えた指揮者も当時活躍していたし、
その下の年齢の指揮者も群雄割拠していた時期だ。


それらすべてをひっくるめてまるで総否定したようなのこの物言い。

こんな信じがたい発言など本来は許されるべきものではない、
というか常識外れもはなはだしい。

だが当時はそれを一部音楽雑誌も追従していのだから、
情けないにもほどがあるこれは話だった。


だいたい巨匠というのはかなりいい加減な物言いで、
使う人によってその意味合いはコロコロ変わる。

だからその人その人によって、
巨匠がいたりいなかったりするのは当たり前なのだ。


だが2002年のヴァント逝去時のそれと、
その後ときおりみかける音楽ゴロの発言はそうではなく、
そういう部分をも完全無視したような、
それこそ「素晴らしい指揮者はもうこの世にいない」ことが
さも世界の理であるみたいな上から目線爆発なのだから、
これはもう傲慢というか始末が悪い。


しかもこの輩の発言は、
過去の「巨匠」たちの演奏の若かりし頃のものまで、
すべて今の指揮者より格上みたいな発言をしているときがある。


正直確かにそういう演奏も取るに足らないということはないが、
後々自分たちが巨匠と思い込むような指揮者になる前、
例えばもしこの録音時からすぐこの指揮者が亡くなっていたら、
それでもこれらの演奏を今の指揮者よりすぐれていると、
そう胸を張って彼らは断言できるのかといったらそれは絶対無い。


だいたい指揮者おいて「格」などというものなど、
絶体存在などしていないし、
だいたい定義できる代物ではない。
それは「巨匠」と同じであり、
言葉遊びのひとつくらいのお飾りでしかない。


それをそういうおかしなことに使うのだから
もうこれは救いがたいものがある。


個人レベルで「巨匠不在」を唱えるのは、
それはもう自由だしその人その人の考えだから、
それをネタにいくらくだをまいたっていいだろう。


だが一部音楽ゴロの戯言を、
そのまま一部音楽マスコミがそのまま掲載し、
それを利用しておもしろおかしく今を語るのは、
百害あって一利なしということだ。


こういうイメージ先行の飾り事を、
マスコミが増長し取り返しがつかなくなった例としては、
日本の一部に蔓延る偏狭なブルックナー感の存在があるけど、
この「巨匠不在」という広くねつ造されたイメージの流布も。
同様に取り返しのつかないものになる可能性もある。


幸いネットの普及は、
そういう馬鹿な物言いも広まる例があるにはあるものの、
それ以上にそういうことに対する素直な疑問、
そしてそういうことに惑わされない、
自分自身の考えをストレートに発信させたものの方が、
はるかに多いことがここ数年はうかがえる。


もちろんそれらを精査して上でも、
自分は「巨匠」はいないというのなら、
上記したようにそれはそれでいいだろうし、
個人レベルまでこちらも頭ごなしに否定しようという気は毛頭ない。


ただそれが「その方がおもしろい」とか、
たいして精査せず適当に広めようというそれには、
自分はそれを「大嘘」として言いきってしまう所存だ。


だいたい今の時代に真摯に向き合わず耳を傾けないものに、
「巨匠時代」といっていたベームやムラヴィンスキーが来日していたその当時も、
真摯にその時代にその音に正面から向き合っていたとはとても思えない。
おそらくその心の底には、

「これがフルトヴェングラーだったら」とか「クナッパーツブッシュだったら」

といって聴いていたことだろう。違うだろうか。



こういう決めつけ。

さぞや言われた方は嫌な思いをするだろう。


それと同じことを多くの人がしているということを、
その人が少しでも感じてもらえれば、
この一文を書いた甲斐があるというものです。


因みに自分は、
今ほど最高に面白く群雄割拠した指揮者が揃った時代というのも、
かなり珍しいとおもっている。

しかも全世代に渡ってまんべんなく、
その多くが録音や放送や配信、
さらには来日公演によってリアルタイムで楽しめるのだから、
これほど贅沢な時代はない。

確かにアジアツアーで日本を素通りしてしまうことも少なくないけど、
それらの指揮者やオーケストラもちゃんと日本に、
また違う機会に来日している。

こんな時代に時代遅れの価値観や世迷言に左右されて、
イージーに聴き逃すなどほんとうにもったいない。

あとで後悔してももう遅い。


これからも音楽と長い年月付き合っていこうという人は、
ぜひ今の時代の音楽を、
大事に真正面から色眼鏡なしに聴いていってほしい。


名演など演奏される前からは存在しない。

真摯に聴いた人たちがいたからこそ名演として心の中に刻まれ、
そしてそこから各々にとっての「巨匠」もうまれた。

よく言われる「伝説的名演」も同じだ。


それが無くなってしまったらどうなるか。

自分はそこの所を特に強く念押しで唱えたい。



かつてこんな会話を演奏会場で聴いた。


「ハーディングの演奏がよかったといったら、
バーンスタインのマーラーを聴かなければダメといわれた。
ハーディングのマーラーを聴いて感動しただけではなんでダメなの?」


確かこんな内容だったと思う。

この会話を皆さまはどう感じられるだろう。


最後に余談だけど以前も書いたことをひとつ。

オーケストラ・ニッポニカにある芥川也寸志氏の発言。


「感動と言うのは精神の風車を廻すことである。たとえば、私たち音楽を愛する者が楽器の技術は拙くとも練習に練習を重ねて、僕等の拙つたない精神の風車を廻す練習をし、ある作品を舞台で演奏すると、その廻る風車の風に吹かれて客席のみなさんの精神の風車も徐々に廻り始める。さび付いた風車も、普段から手入れの行き届いた風車も勢い良く廻り始める。これが感動と言うものだと思う。だから自分の風車をまず廻そう・・・」


その風車を故意に他者が錆びつかせたり、
横から止めてしまうのだけは絶対にやめてほしい。



うーん…しかしタイトルとラストの〆が完全に変わってしまった。
あいかわらずグダグダかつまとまりが無くてすみません。

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ブルックナーと自分 [クラシック百物語]

というタイトルで語る前に、
自分が初めて聴いたブルックナーをあげておく。

自分が初めてブルックナーを聴いたのは、
NHKで放送されていた、
1973年に来日したカラヤン指揮ベルリンフィルによる7番。

特にその第三楽章の、
あのトランペットのテーマが耳に残った。

そういえばこの当時のカラヤンの人気はすさまじく、
今では考えられないだろうが、
この来日と前後して、
民放の夜10時以降だったと思うが、
カラヤンが映像用に当時制作していた、
ベートーヴェンの「第九」や「英雄」、
それにブラームスの交響曲第1番などが放送されていた。


とにかくそれをきっかけにまず7番を購入した。

ただ指揮にワルターのものを選んだのは、
この曲がLP1枚に収まっていたことにより、
これが一番価格が安かったから。


当時国内盤では同曲の廉価版は
ほとんど存在していなかったので、
消去法の選択だったといえる。

いまならティントナーの7番をCD購入といったところだろうか。

この後どういう順番で購入したかは失念したけど、
以下のものが最初に購入したものだった。

0番、ハイティンク指揮コンセルトヘボウ
1番、マズア指揮ゲヴァントハウス
2番、ジュリーニ指揮ウィーン交響楽団
3番、ベーム指揮ウィーンフィル
4番、ベーム指揮ウィーンフィル
5番、クナッパーツブッシュ指揮ウィーンフィル
6番、カイルベルト指揮ベルリンフィル
8番、ムラヴィンスキー指揮レニングラードフィル
9番、アーベントロート指揮ライプツィヒ放送交響楽団

なのでこれらの指揮者のブルックナーには、
その後もひじょうに愛着がある。

ただ演奏会の方が自分の好みがもろに出たものとなっている。

最初の10年のみですが聴いただいたいの順番としては、

1978年、7番、スイトナー指揮SKB
1981年、4番、ブロムシュテット指揮SKD
1982年、8番、ヨッフム指揮バンベルク交響楽団
1983年、7番、マズア指揮読売日響
1984年、8番、マタチッチ指揮N響
1986年、8番、朝比奈指揮大阪フィル
1986年、7番、ヨッフム指揮コンセルトヘボウ
1986年、7番、プロムシュテット指揮N響
1986年、5番、チェリビダッケ指揮ミュンヘンフィル
1986年、8番、スイトナー指揮N響
1987年、4番、朝比奈指揮NDR
1987年、4番、マズア指揮ゲヴァントハウス
1987年、5番、インバル指揮フランクフルト放送

といったかんじになっている。

マタチッチと朝比奈のそれは宇野さんの影響が多少はあるが、
あとはそうでもない。

こういうかんじで自分のブルックナー体験は築かれて行った。


そのせいかもしれないけど、
自分のブルックナーに対する好みや感覚は、
宇野さんあたりがつくりあげたブルックナー像とはかなり違う。


ブルックナーは神をこよなく愛し信じ切っていたが、
それは深山幽谷的な静的なものではなく、
没我的ともいえるほどの狂喜を内蔵した、
きわめて動的なものだったと自分は考えている。



また彼にとっての神はキリストだけが唯一無二ではなく、
楽聖ベートーヴェンもまた違った意味で信仰の対象だったと思っている。


楽聖没後50年にあたる1877年に、
彼の手元に完成もしくは改訂中だった交響曲が、
じつに四つもあったのはたんなる偶然ではないだろう。

確かにブルックナーは偉大であり唯一無二ではあるけど、
まったく誰にも影響されなかった、
もしくはまったく他の作曲家と独立して存在していたわけではない。

特に彼の楽聖に対するそれは、
1877年というだけでなく、
ニ短調への強い思い入れや、
執拗な繰り返しによる強調と拡大等にも、、
ベートーヴェンを意識したそれを垣間見ることができる。


このことを踏まえて、
ベートーヴェンに高い評価を得ていた指揮者によるブルックナーを聴きだしたら
今までみえていたブルックナー像とはかなり違うそれがみえてきた。


なんというのだろうか、
ベートーヴェンが権力や運命に対しての渾身の闘いがひとつのテーマだとしたら、
ブルックナーのそれは神や楽聖に対する渾身の力を込めた無償の愛、
それがテーマだったという気が、
それらを聴いているとより強く感じられるような気がした。

しかもそれは静的なものではなく、
きわめて動的かつこちらから踏み込んでいく狂熱的な類のものだ。

これがそういう指揮者の演奏からとにかく強く感じられる。


フルトヴェングラーのベルリンフィルとのライブの5番や8番を聴くと、
聴衆を熱狂させたというオルガン演奏時のブルックナーの姿が、
ひどく重なってみえてきてしかたがない。


フルトヴェングラーのブルックナーが、
ベートーヴェンを指揮したときに似た勢いとノリを感じるのは、
たたフルトヴェングラーの芸風だからといって片づけられないと、
自分はとにかくそう思えてしまう。


ショルティのブルックナーにもやはり同じことを感じるし、
ワルターの特にモノラルのライブ録音、
さらにベームやヨッフムにも同じようなものを感じる。


考えてみればまわりからいろいろと言われながらも、
推考に推考を重ねて改訂をしながら最終稿に至るものの
基本姿勢は頑として崩さず、
新しい交響曲を書くたびに、
過去の他人からの進言や忠告を、
ほとんど毎回初期化していたブルックナーのそれは
何事にも屈しなかったベートーヴェンのそれと重なるものがあり、
ブルックナーこそベートーヴェンの後継者ではなかったのかと、
そんなことさえ感じられてしまう。


そのせいか、
自分は多くのブルックナーマニアと違って、
ドイツ・オーストリア系の指揮者や団体のそれや、
年齢をある程度重ねた指揮者じゃないと云々とか、
そういう意見をほとんど黙殺している。


だいたいブルックナー自身、
自分の曲が演奏されることを第一に考え、
そこに分け隔てがなかったことを考えると、
何で聴く側が作曲者を無視して、
勝手に塀作ったり囲い設けたりして、
演奏を狭い範囲の解釈しか許さないような考え方に押し込むのか、
自分にはまったくといっていいほど理解できない。


というより、
それはブルックナーに対して、
ひどく無礼というか、
「また小さく見積もりやがって」
という感じでじつに失礼極まりないという気がする。



確かにブルックナーの音楽には、
オルガン風の分厚い響きや、
敬虔なカトリック教徒であるというくくりはあるが、
それをすべてにしてブルックナーの音楽を縛るのは、
はたしてどうなのだろう。


自分は最近ティルソン・トーマスの指揮したブルックナーの7番を聴いたとき、
かつてCDで聴いたクナッパーツブッシュの同曲の演奏を思い出した。

このとき自分には、
この二人に見えていたものはほとんど同じものであり、
その方向性もかなり似たものだったように感じられた。


もちろんその演奏スタイルに両者ほとんど互換性はなく、
本来は相いれないはずの二つの演奏なのだが、
この曲の巨大な枠の中で、
同じ方向を指し示すものとして、
ちゃんとひとつの世界に二つとも存在させられたため、
このような感覚を覚えたような気がしてならなかった。


それを感じたとき、
自分はなんてブルックナーって巨大な世界をもった、
とてつもない作曲家だったのだろうと、
あらためてその大きさに驚嘆し畏敬の念をもったものでした。


おそらくブルックナーの音楽は、
一時言われたような、
特定のスタイルでしかその良さが分からないというものではなく、
どのようなスタイルにおいてもその曲のいろいろな面をみせるという、
とてつもなく巨大で多様な音楽を内包した怪物的な音楽なのだろう。


そういう意味ではベートーヴェンと、
これまた似た世界をもった作曲家だったといえるだろう。

というかブルックナーは、
生涯そんな巨大なベートーヴェンを慕い、
そして追いかけ追い求め、
その世界に少しでも近づけたらという、
そういう想いを生涯抱いていたのかもしれない。


不器用な人間であり、
不器用な語法による不器用な作曲かもしれないが、
そんな人間がひとりの人間に私淑し、
熱狂とも純粋ともいえる姿勢によって、
生涯を通してとことん祈り焦がれ追い続けた作曲家、
それがブルックナーの本質であり、
その音楽を支えたエネルギーだった。


と、自分はブルックナーを現在そうとらえている。


ブルックナーを聴くとき、
ひじょうにその無垢な部分を感じるのは、
そんなひたむきで一途な姿勢からくるのかもしれない。


ならばその音楽に真摯に対峙するときは、
こちらもせめてその方向性に沿った姿勢で耳を傾けても、
自分は罰は当たらないと確信している。


少なくとも自分はそういう聴き方をするよう心掛けてからは、
この作曲家から、
以前よりいろいろな事を感じられるようになった。


ブルックナーとは、
そんなことまで考えさせられる作曲家のひとりなのかもしれない。


そんな考えや思いが今現在の
ブルックナーと自分との間にある
ひとつの基本となっています。


いささか特異な考えなので、
今流行りの日本で主流となっているブルックナー感と、
大きく隔たっているのはこのためなのでしょう。



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巨匠の響きよ永遠に!藝大に遺されたレコード2万枚の危機を救う [クラシック百物語]

2013年に、世界的なSPレコード研究家、クリストファ・N・野澤氏(1924-2013)が半世紀以上にわたって収集したクラシック音楽のSPレコードコレクション2万枚以上と、愛用の蓄音機が東京藝術大学附属図書館に寄贈されました。

このコレクションは、クラシックでは国内最大級の規模を誇り、歴史的に貴重な音源が多数含まれています。しかも、SPレコードを蓄音機で聴くと、とても豊かでリアリティのある、素晴らしい音がします。

現在、コレクションの1割程度が利用可能な状態で、これらを使用して蓄音機コンサートを開催しています。しかし、残った9割のSPレコードは段ボールに入ったまま地下倉庫や図書館事務室に積んだままになっています。

2017年から2018年にかけて、現在、書架が満配の図書館が改築・改修され、レコードを保管する場所の目処が立ちました。これを機会にレコードを棚に並べたいのですが、重く、割れやすく、反りやすいSPレコードは、LPと違い縦置きの保存ができません。横向きに10数枚ずつ積んで保存する必要があるため、保存箱に収納して書架に並べる予定です。しかし、2万枚のSPレコードを保存するには、保存箱1箱に15枚入れたとしても1300箱が必要な上、何箱か重ねて収納できる丈夫さも求められます。

SPレコードを段ボール箱から保存箱に入れ替えることができれば、レコードリストを作る作業を始められます。また、リストが完成すれば、様々なテーマで蓄音機コンサートを開催することができます。2015年から蓄音機コンサートを10回以上開催していますが、使用したいレコードが見つからないことが頻繁にあります。

全てのレコードが使えるようになれば、蓄音機コンサートが開催できるだけでなく、演奏史の研究や、演奏家の研究に役立てることができるようになります。

そしてそういった活動や研究を通して、SPレコードと蓄音機というメディアの素晴らしさ、過去の大演奏家や忘れられた演奏家の素晴らしさを多くの方に知っていただきたいと考えています。


「 巨匠の響きよ永遠に!藝大に遺されたレコード2万枚の危機を救う」(クラウドファンディング - Readyfor のサイトへ)にぜひともご支援をお願いいたします。


(photo : 東京藝術大学 デザイン科 視覚伝達研究室 叶子萌)

http://geidainozawa.tumblr.com/


SPレコード2万枚という物凄さは、
ちょっと想像を絶するものがある。

しかもSPはひじょうに割れやすいし欠けやすい。

保存には細心の注意が必要だ。


しかもSPの多くは、
CDはもちろんLPにも復刻されていないものが山ほどある。

野澤さんのコレクションはあまり把握していないけど、
宮沢賢治のクラシック本の音源を提供してくれたのが、
他でもない野澤さんだったことを思うと、
その内容の貴重さはもう言わずもがなだろう。


それにしてもこのコレクションが藝大に行ってたことさえ、
自分はぜんぜん知らなかった。

とはいえ知っていたとしても、
何か自分にできていたとはとても思えない。


とにかく現状をこのように伝えるのが、
今自分ができることのひとつ。


ただ本当はレコードはどんどん消耗していくので、
できれば同時進行で、
CDに復刻されていないものだけでも、
どういう媒体でもいいから、
音だけでも保存したいところ

中にはひょっとして、
世界にこれが最後の一枚みたいな、
とてつもなく貴重な音源もあるかもしれない。


ほんとうは藝大だけでなく、
NHKや国会図書館、
さらには東京文化会館資料室あたりと共同して、
保存データ化すべきではないだろうか。


まあ外野の意見なのであれなのですが、
とにかく現時点での最良の保存状況をなんとか確保したいものです。


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南西ドイツ放送交響楽団 [クラシック百物語]

すっかり忘れていたけど、
先月(2016年9月)シュトットガルトで、
南西ドイツ放送交響楽団の第一回演奏会が行われたという。



このニュースを聞いて

「?」

と思われた方も多いかもしれないが、
じつは今年の7月をもって、
「シュトゥットガルト放送交響楽団」
(Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR)
「南西ドイツ放送交響楽団  バーデン=バーデン・フライブルク」
(SWR Sinfonieorchester Baden-Baden und Freiburg)
この二つが合併
南西ドイツ放送交響楽団
「SWR Sinfonieorchester」
となった。

ようするに南西ドイツ放送の傘下のオケが、
ひとつになったということだ。

かつては三つあったというこの放送局のオケは、
これでついにひとつとなった。


かつてこのオケの合併に反対、
著名な指揮者を含む多くの反対署名が行われたが、
けっきょく経費削減のそれには勝てず、
こういうことになってしまったとか。


両オーケストラとも録音も多く、
また来日公演もしたことがあり、
おなじみのオケだっただげに、
この合併は正直ショックの方も多いだろう。


これにより音楽という面での文化が、
この地域にどう変化をもたらすかはわからないが、
未だ音楽監督が不在というのが、
今のこのオーケストラり現状を物語っているといっていいのかも。

第一回の演奏会はエトヴェシュ・ペーテルが指揮したらしいが、
彼が就任するのかというとどうなのだろう。

ステファヌ・ドヌーヴやフランソワ=ザヴィエー・ロトの、
どちらも続投しなかったのは正直いたいことだろう。


とにかく早くこのオーケストラの次の舵取りを決め、
再度この地域の主軸となってほしいところです。

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マーラーの「復活」の自筆譜競売へ。 [クラシック百物語]

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【8月18日 AFP】クラシック音楽界の巨匠グスタフ・マーラー(Gustav Mahler、1860~1911年)の希少な直筆の楽譜が競売にかけられることになり、香港(Hong Kong)で17日、公開された。

 競売を主催するサザビーズ(Sotheby's)によると、この全232ページの楽譜は交響曲第2番「復活(Resurrection)」の完全な自筆譜。英ロンドン(London)で年内に競売にかけられ、落札予想価格は手書きの楽譜としては史上最高値の350万ポンド(約4億5600万円)。

 オーストリアの作曲家・指揮者マーラーは10曲の交響曲を手掛けたが、サザビーズによると、完全な楽譜が競売にかけられたことはこれまでに一度もないという。「これは本当に優れた歴史上の偉人の手書きの楽譜を手にする一生に一度あるかないかというチャンス」と担当者はコメントしている。(c)AFP
http://www.afpbb.com/articles/-/3097863?pid=


凄いニュースだけど、
こういのって、
国と企業等がお金出し合って然るべきところで保管、
資料館等で常設展示、
中身をすべてネットでみることができるという具合に、
人類全体の遺産として管理公開すべきではなかろうか。

凄いニュースだけど、
ちょっと複雑な気持ちです。

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バカどもに蹂躙される演奏会 [クラシック百物語]

音楽評論家の東条碩夫さんが、
その演奏会のリポートを書き込んでいくサイトがある。

自分のように演奏会に行かなくなった人間にとって、
それはとてもありがたいサイトで、
いつもけっこう楽しく読ませていただいている。


だが最近その東条さんの文に、
ここ数年一部の聴衆のマナーに言及することが増えてきている。


しかもときおり、
かつてみられることのない厳しい発言もみかけるようになった。

そして最近ついにこういう発言があった。

「「トリスタン和音」が解決し、消え去るように終ったあとの感動的な静寂を破った狂気じみた下品な声のブラヴォーの主は、全く人間性を疑われるべき、音楽テロリストと称してもいいほどの輩だが、不快な体験の記憶は早く消し去り、演奏の素晴らしさだけを心に残すことにしよう。」
http://concertdiary.blog118.fc2.com/blog-entry-2483.html

クラシック音楽の聴衆のマナーとモラルの低下は、
ここ数年特にいろいろと言われるようになっている。


しかもその問題行為をしている人は、
初心者や若い人たちではなく、
すでに中高年といわれる人であり、
クラシック音楽をある程度聴いている人たちがほとんどと聞く。

こういう人たちは、
そこそこプライドが高いせいか、
あまり人の意見を聞かない傾向がある。

だがだからといってやっていいことと悪いことがある。


自由と無秩序を単純にただはき違えているのか、
それとも「精神の叫び」ならすべてが正当化されると、
本気で勘違いしてるのかはわかりませんが、
鉄オタが線路内に不法侵入して列車を止める蛮行とこれはまったく同じ。

いやもっときついことを言わせてもらうなら、
炎上覚悟で言ってしまうが、
これはオウムのサリンやISの自爆テロと、
正直行動原理はまったく同じといっていいと思う。

自分がスッキリすればあとはどうなってもいいのか。

他人の感動をぶち壊し、
心の中を土足でズケズケと踏み込むような、
そういう行為をしてもいいのか。

自分以外はみんなクズとか、
自分は他人より感受性豊かな優れた聴き手だからしかたないとか、
そういう傲慢な思考がベースにあるから、
他人のことなどおかいましなのではないか。

そんな人としておかしな考えに凝り固まった、
自分よければすべてよしみたいな、
そんなバカで非常識な考えで演奏会になど絶対来るな。

聴衆というより、
それ以前に人としてやりなおしてから来い。

おととい来やがれだ。


多くの評論家がこういうことに対し、
「声明」を連名で出さなければいけないのかもしれないが、
ただそれはそれで情けないし救いがたい話ではありますし、
ごくごく一部のおかしな人たちへのメッセージということを思うと、
そんなことしても肝心の当人たちには、
まったく効果が無いのは火をみるより明らかだ。


いったいいつまで、
こういう一部の輩の暴挙に、
その他大勢の真面目な聴き手が巻き込まれ、
我慢しなければならないのか。

サッカーみたいに、
こういう人はフーリガンとみなして出禁にしなければならないのか。

ただそうするにしても、
こういうものの線引きってとても微妙でデリケートな問題だし、
そう簡単にできないのはこちらも分かっているし、
だからこそこの問題が今の今まで、
手がなかなかつけられないということにもなっている。


それにしてもどうしてこんなことになってしまったのだろう。

おそらくどこかにそういう聴き手に共通した、
致命的な勘違いの元凶があるような気がするのだが、
それがなかなかわからないというのも我ながら情けない。

一度こういうこに関して、
精神医療の関係の方から意見を聞いてみたいものです。


ああしかし、
こんなことを言わなければならない時代になったとは…
東条さんの嘆きが聞こえてきそうです。
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ニューヨークフィルの次期音楽監督にヤープ・ファン・ツヴェーデン決定 [クラシック百物語]

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Jaap van Zweden wordt dirigent van het New York Philharmonic, een van de meest gerenommeerde symfonie-orkesten ter wereld. Van Zweden (55) volgt Alan Gilbert op, die het orkest sinds 2009 leidt en eind volgend jaar terugtreedt. Over zijn opvolging werd al bijna een jaar lang gespeculeerd. Van Zweden begint in het seizoen 2017-2018 en wordt een jaar later chef-dirigent.

http://nos.nl/artikel/2083173-jaap-van-zweden-naar-new-york-philharmonic.html


ヤープ・ヴァン・ズヴェーデンとは驚いた。

現在いくつかポストを持っているが、
そこから一足飛びでアメリカのトップオケのひとつのシェフになった。


そんなに派手ではないけど実力のある指揮者という、
そんなかんじを受けていたけど、
かなりアグレッシブな感じの演奏もしているということなので、
そういう意味では面白い人選なのかもしれないが…。


しかしこのオケとの客演はともかく、
果たしてトップに立つとなるとどうなんだろう。


ひじょうに興味深い、
正直にどっちに転ぶか分からないけど、
とにかくここはひとつじっくりと様子をみたいところです。


MTTじゃなかったんですねえ。

とにかくちょっと驚いてます。


http://nyphil.org/
NYPOの公式サイト
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年末に第九を聴くと…。 [クラシック百物語]

いつもあることを思い起こしてしまう。

それはシューベルトとブラームスのこと。


ブラームスはシューベルトがとても好きだったという。
ドヴォルザーク、グリーグ、ヨハン・シュトラウス二世も好きで、
親交ももっていた。

こうしてみると彼はメロディメーカーにとにかく惹かれ、
少しでも彼らのようになりたいと思っていたんだろうなあという気がするが、
残念ながらシューベルトのみ自分が生まれる前に亡くなったので、
会う事すらできなかった。

そんなブラームスの第一交響曲の第四楽章、
例の第九のメロディに似た部分があるが、
シューベルトのグレイトの第四楽章にも第九のメロディに似たところがある。
で、この二つをよく聞くと、
シューベルトは第九のメロディの前半、
ブラームスはその後半が似ている。

それを思ったら、
この曲に込めた両者のベートーヴェンへの敬愛の念もそうだけど、
ブラームスのシューベルトに対する限りない敬愛の念もとても強く感じられた。

そういえばベームがウィーンフィルと1975年に来日したとき、
この二曲を日本公演にもってきていた。

このあたりをベームは意識していたのだろうか。


第九を聴いた翌年に完成したシューベルトのグレイト。
ベートーヴェンの没後50年を翌年にひかえた年に初演されたブラームスの第一。

年末の第九の時期に、
自分がいつも思い起こしてしまう事柄です。






年末に書き込むつもりがすっかり忘れてました。
あと350日も書き込むのを待つのもあれなので、
三が日に書き込んでしまいました。
かなりケッタイな感じとなってますがご了承ください。
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