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ハイティンクの1960~1970年代の印象 [クラシック百物語]

ハイティンクハ2017年現在、
ブロムシュテットとならぶ長老指揮者として、
世界的にも高く評価されている。

ただ彼の評価というか、
特に日本でのそれはその初めの頃は、
決して芳しいものではなかった。

彼の名前が日本で知られたのは、
1961年にベイヌム急死以降空席になっていた、
コンセルトヘボウの首席になった時だと思う。

前任ベイヌム同様ヴァイオリン出身で、
若くしてオランダ国内で活躍していた、
当時売り出し中の新鋭というポジションだったらしい。

当時31歳ということでまさに大抜擢だったが、
さすがに一人では荷が重いということだったのだろうか、
バイエルン放送響を退任したばかりの、
オイゲン・ヨッフムも共同で1964年迄担当、
日本にも1962年と1968年のコンセルトヘボウ公演時に、
ハイティンクに同行し来日している。

一方当のハイティンクはというと、
この二度のコンセルトヘボウとの来日、
翌年の1969年のロンドンフィルとの初来日公演と続くが、
彼の当時の日本での評価は、
一言でいうと地味もしくは鈍いものが多かった。


それらの多くの評の一致している所は、
オケは素晴らしいが指揮者の個性が薄い、
もしくは踏込が足りないという類のものが多かった。

これは彼のオケのそれを尊重し、
楽曲の良さをそこに活かしていこう姿勢もあったが、
当時近い年齢の指揮者に、
マゼール、ケルテス、そしてメータといった、
個性がハッキリと感じられる指揮者がいたことも、
ハイティンクには不幸だったかもしれない。

またハイティンクはこの時期諸般の事情で、
ブルックナーやマーラーの交響曲全集という、
大作を立て続けに録音したことも、
他の指揮者の個性的な演奏や熟練した演奏と比較され、
コンセルトヘボウの音が素晴らしいだけに、
結果オケに下駄を預けているだけという、
そんな感じのイメージも生まれてしまったことも、
結果的にハイティンク自身の評価の好転には、
いまひとつ結びつかなかった。

ハイティンク自身、
毎年のように頻繁に来日していたわけではないので、
そのあたりの録音でのイメージは、
日本ではかなり大きなそれを占めるものでした。

ただハイティンクのもつ、
平衡感覚の強い演奏スタイルは、
イギリス等では高く評価され、
1967年には早くもロンドンフィルの首席に就任している。

なので日本でのそれは、
世界での一致したものというわけではなかったようです。


1974年にハイティンクが五年ぶりに、
今回はコンセルトヘボウとの来日となった公演では、
自身初の単独によるツアー牽引となった。

チェン・ピーシェンと二日間共演があった以外は、
すべてソリスト無しの公演。

しかも中には初来日時にヨッフムの指揮で評判になった、
ブルックナーの交響曲第5番、
そしてこのオーケストに献呈された、
Rシュトラウスの「英雄の生涯」が初めて取りあげられるなど、
極めて意欲的な内容となり、
5月4日に前年オープンしたNHKホールでの演奏は、
NHKがテレビとFMでも中継された。

ブラームス/ハイドンの主題による変奏曲
マーラー/交響曲第10番~アダージェット
Rシュトラウス/英雄の生涯

という内容のもの。

これは自分も見ていたけど、
ハイティンクは極めて積極性のある、
かなり熱い演奏を聴かせていたけど、
印象としては指揮者より曲の方が残るというもので、
ひじょうに自分の好みにあった演奏だった。

またオケの状態もとてもよく、
最初のハイドン変奏曲の冒頭の木管など、
その重く味のある響きに魅了されたものでした。


当時の来日前はオーケストラの来日ばかりが大きく話題となり、
指揮者はどうも二の次のような雰囲気だったものの、
この放送を見た人などは、
けっこうハイティンクも印象づけられたのでは?
と思ったものでした。

もっともこの公演も以前よりは好評だったものの、
やはり話題そのものはやや地味で、
ハイティンクの評価も自分が思った程ではありませんでした。

ただこの来日直前そして以降に日本で発売された、
ブラームスの交響曲第4番や第2番は素晴らしく、
雑誌での評価もそこそこのものがありました。

このあたりからハイティンクへの評価は、
ゆっくりと上昇していきました。

そして1977年コンセルトヘボウとの三年ぶりの来日。

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かつては六年間隔で来日していたので、
ちょっと意外な感じもするこの来日公演は、
ハイティンクの素晴らしさを全開したような演奏ばかりで、
マーラーもベートーヴェンも、
そしてFMでしか聴けませんでしたが、
ブラームスやドビュッシーも気合の入った、
それでいてバランスや細やかな表情も随所に感じられる、
極めて聴き応えのある素晴らしい演奏ばかりでした。


評判も以前よりかなり良いものがふえ、
特に指揮者とオーケストラの一体感が高く評価され、
今までよりもはるかに評判の高い、
特にハイティンク自身が高い評価を受けた公演になりました。

しかもその後発売された多くの録音が、
そのときの好調さを持続しているだけでなく、
ハイティンクの凄みも強く感じられる演奏が増えていきました。

自分がもつハイティンクの音盤が、
1970年に録音されたものが多いのはそのためでしょう。

前述したブラームス以外にも、
チャイコフスキーの5番、ブルックナーの7番、
ロンドンフィルとのスコットランドは、
今でも自分の愛聴盤となっています。

そしてデジタル録音時に録音された、
ブルックナーの9番には腰が抜けそうなくらい驚かされ、
ある評論家の方など、

「この歳でここまで円熟しきってしまうと後が心配」

と言うほどでした。


このためハイティンクの次回の来日を心待ちにしたものの、
1980年のロンドンフィル、
1986年のコンセルトヘボウとも同行することはなく、
結局1992年のロイヤルオペラまでその来日を待たなければならなかったのは、
本当に今でも残念に思っています。


このように今では巨匠といわれているハイティンクでしたが、
1960年代1970年代の半ばくらい迄は今では信じられないくらい地味で、
評価もあまり高くありませんでした。


それから半世紀程たち、
今は押しも押されもせぬ巨匠となりましたが、
ある意味文字通り大器晩成という道を歩んできた人だと思います。

これからも末永く活躍してほしいです。

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1977年のプログラムに2003年サインをいただいたもの。
本人もなにかこのプログラムを気にしていたようです。
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セミがとんできた [ひとりごと]

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突然網戸にとまり、
またすぐとんでいった。

その透き通った姿は感動的だったけど、
そのはかない命を思うとちょっといろいろと…。

今年はなん急に涼しくなったけど、
8月15日がまたやってきました。
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横浜能楽堂施設見学日<山の日スペシャル> に行く。 [小さな旅(Japan small travel)]

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普段は平日にやっている、
横浜能楽堂施設見学ですが、
この日は特別に祝日に行い、
しかもふだんは展示していない装束も間近でみられるという、
なかなかの好企画。

http://ynt.yafjp.org/
横浜能楽堂

この日は10時と特別に19時の回も行われたが、
自分は10時の回へ行く。

前回平日にあった時は、
外国からの観光の方も含め二~三十人くらいだったけど、
この日は雨にもかかわらず
百数十人の人が来館した。

このため一度に移動できないため、
三つのグルーブに分かれてみることになりました。

あとは写真を中心に。

能楽堂入口
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フロアはけっこう広め。
参考図書も閲覧できるようになってます。
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フロア天井部
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二階からみたフロア
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一階ホール内、扉をあけるとこんなかんじです。
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能舞台。関東最古のものをここに移築したもの。
鏡板が松だけでなく、笹や梅も描かれているという変わったもの。
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二階からみたホール内。
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このような形になっています。

とても綺麗な会場内です。

しかしここの舞台はいつみてもしっとりとしていて、
何かちょっとした霊的なものさえかんじられます。

このあと舞台裏へ。

橋がかり横にある鏡の間。
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楽屋とこの日特別展示されていた装束。
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舞台横の切戸口から舞台をみる。
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このように普段みられない、
それこそ貴重なものがいろいろと見られました。

最近あまり来ていないので、
そろそろ舞台公演でもみてみたいものです。

因みにここは能狂言だけでなく、
古典芸能関係なら原則開けるといのこと。

そういえばここではありませんが、
かつて桑島法子さんが、
能楽堂で宮沢賢治の朗読会をやったことがありました。

ここでもいつかそういう企画ものをみてみたいものです。


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龍の口竹灯籠を観に行く [鎌倉~江の島(Kamakura/Enosima)]

龍口寺境内であった龍の口竹灯籠に行く。

http://www.fujisawa-kanko.jp/event/taketourou.html

今回は写真のみです。

本当はもっと暗くなってから撮りたかったのですが、
とにかく人がガンガン来て、
それほど広くない場所なので、
これでは写真は無理と思い暗くなる前ですが、
混む前に撮りました。

風がそこそこあったので、
消えてしまった灯篭に火をつける係りの人がたいへんそうでした。

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すぐ近くのお店でみかけたもの
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以上です。


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テンシュテット1988年の思い出 [クラシック百物語]

以前別のところに書いてあったものを、
少し加筆してここに再掲載します。

来年(2018)が没後20年ということもありますので。

クラウス・テンシュテットが初来日したのは1984年の4月で、
手兵のロンドンPOとの公演でした。

このときはすでに発売されていたLPや海外での彼の評価の高さから、
前評判がたいへんたかい公演となりました。

この公演は期待に違わぬものとなり、
特にマーラーは大きな評判をよびました。

ただ個人的には、
このときのテンシュテット人気は、
どこかレコード会社が無理やりつくったようなイメージがあり、
自分はあまりこの公演を意識していませんでした。

この公演の後、
テンシュテットはご存知のとおり大きな病に倒れ、
ロンドンPOの座をトップの座を降りることとなりました。

それからテンシュテットの活動の知らせはかなり断続的なものとなり、
ある意味いつ新聞の死亡欄に名前が名前が掲載されてもおかしくないような、
そんな雰囲気の月日がたっていきました。

その間自分はテンシュテットの録音をいくつか聴き、
彼の人気が無理やりつくりあげられたものではなく、
それ相応の実力からきているという印象を受け、
一度聴いてみなければわからない指揮者という、
そういう存在に遅まきながらなっていきました。


そんな1987年のある日、
翌88年10月にロンドンPOが四年ぶりに来日、
そして指揮をテンシュテットとビシュコフが担当するという広告が掲載されました。

ただ正直これは実現しないであろうと思いました。

なぜなら病を患ったテンシュテットの日本公演など、
当時はまったく不可能と思ったからでした。

翌年初め、テンシュテットが前年暮れの12月13日から18日にかけて、
ジェシー・ノーマンとワーグナーの曲集を録音したという話しを聞きました。

が、それでも10月の来日は無いという気持ちは変わりませんでした。

その後同行指揮者がビシュコフからスラットキンに変わり、
プログラムが発表され、チケットも発売されはじめました。

だがその売れ行きはそれほど好調ではありませんでした。

プログラムに定評のあるマーラーが無いという事もありますが、
それ以上の健康上の問題があることを誰もが思っていましたし、
最後はスラットキンが全公演を指揮することになるだろうと。


ですが状況は徐々に変わっていきました。

テンシュテットが久しぶりにコンサートの指揮台に立ちワーグナーを指揮、
アンコールに「ワルキューレの騎行」まで指揮したいう情報が入り、
さらに

「本人はきわめて健康を回復し今では室内で軽くジャンプできるほどまで体力がもどった」

という記事が紹介されたのです。

この時はじめてこの公演は行われるのではないかという気がしたものでした。

こうして月日は立ち公演のある10月を向かえ、
自分もこの頃には公演のチケットを購入を済ませました。


この時点でも危惧された指揮者の変更等の記事が出る気配もなく、
来日の準備は着々と進んでいきました。
そしてテンシュテットが無事来日したという話しが伝わりました。

こうして1988年公演の初日を迎えることになりました。


1988年10月15日:市川市文化会館

クラウス・テンシュテット指揮
ロンドン・フィルハーモニー

ベートーヴェン/「エグモント」序曲
Rシュトラウス/交響詩「ドン・ファン」
ベートーヴェン/交響曲第3番「英雄」


10月15日(土)の市川市文化会館における日本公演初日の日は、
自分にとって今でも忘れることのできない一日となっています。

朝起きてまず新聞をみ、
公演の指揮者変更等の記事がでてないことを確かめまずホッとし、
そしてその後出かけるまで、
急にニュースが入るのではないかと、
気になってたまらない状態が続きました。

今のようにネットの無い時代ですから、
もうこのあたりの事は、
会場に行かないとわかないという、
そういう状況でした。

夕方会場最寄りの駅で降りた後、
とにかくなんともいえない不安混じり気持ちで会場へ向かいました。

会場前に着くとそこには

「クラウス・テンシユテット指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団演奏会」

という場違いなくらい大きな立て看板が、
これまた大きな文字で書かれて立っていました。

このとにかく大きな看板の存在にもかかわらず、
「まだ安心は出来ない」
という気持ちがとにかくありました。

会場に入りプログラムを購入。

白地に黒の文字だけという、
ひじょうにシンプルなデザインの表紙でしたが、
これは当時昭和天皇の体調が思わしくなく、
賑やかなもの華やかなものを自粛するという、
そういう雰囲気が当時世間にはあったので、
それに沿ったデザインだったようです。

その後会場に入りこれといったアナウンスもなく、
開演時間を告げるブザーがなりました。

会場はほぼ満員。


この時、突然予期せぬ場内アナウンスが始まりました。

これには一瞬死ぬほど驚いたのですが、
それは「アラーム付き時計のアラーム解除のお願い」でした。

このためすぐに安堵したのですが、
このアナウンスが始まった瞬間、
自分だけではなく、
会場全体が一瞬凍りついた雰囲気になってしまいました。

会場にいる全員が自分と同じ気持ちだというのこのときわかりました。

しばらくしてオーケストラが現われ、
そしてテンシュテットをこよなく尊敬する名コンサート・マスター、
デヴィット・ノーランがあらわれ、
その後チューニングが行われ、後は指揮者の登場待ちとなりまし た。

ですがこの場に及んでも、
「万が一」
という最悪の事がまだ脳裏にあり、
会場全体も極度に静まりかえった状態になっていました。


そしてしばらくしてついに舞台にテンシュテットがゆっくりと姿をみせました。

この時の会場の凄まじい拍手と歓声は演奏前としては異例なものとなりました。

それは死地から生還した一人の人間を、
心からたたえるものであったように感じました。

自分の経験で指揮者の登場にここまで大きな拍手が起きたのは、
この三年後のチェコフィルとともに来日した、
ラファエル・クーベリックくらいかもしれません。

盤来の拍手がおさまると、
テンシュテットは指揮台に上がり、
譜面台上の楽譜をめくり、
そして一息入れから指揮棒を振り下ろしました。

「エグモント」序曲。

冒頭、
それは けっして大きな音ではないものの、
きわめてしっかりとした確信にみちた、
そして自らの復活を告げる力強い響きでした。

こうしてこの演奏会ははじまりました。

この演奏会は自分の経験したものでも特別なもののひとつとなっています。

なかでも後半に演奏された、
ホルン6人を2人のトランペットの左に横一列に並ばせた、
ベートーヴェンの「英雄」は特筆すべきものでした。


第一楽章はどちらかというと慎重な運びで、
フォルムの自然な美しさが印象として残るものでした。

そして第二楽章。

最初の弦が鳴った瞬間一瞬ぞっとさせられてしまいました。

透明感のあるそれでいてなにか深淵を覗き込むような、
底知れない戦慄のようなものを感じてしまったからです。

それにしてもこの時の「英雄」はテンシュテットは、
自分をこの曲になぞらえていたのではないかと思われた程で、
これは死地からの生還を果たしたものだけに許される音楽のようでした。

いまでもこの楽章におけるこのときの演奏は、
ある意味特別なものとして自分の記憶に深く刻み込まれたものとなっています。

躍動感と風格のある第三楽章。

そして最後にホルン6人が全員で吹奏するという、
壮大なスケールをもった終楽章もあまりに素晴らしく、
今後この「英雄」を超える演奏に出あえないのではないかというくらい、
完全に圧倒されつくしてしまいました。

演奏終了後の何度も舞台によびだされ、
その後オケが退場しはじめても拍手はやむことはなく、
会場内はスタンディング・オベーション。

そしてテンシュテットが舞台にひとり登場した時
聴衆はこの日最大の拍手と歓声を贈り続けました。

このときそれを見つめながらなかなかその場を立ち去ろうとしない、
多くのロンドンフィルの面々の笑顔は今でも強く印象に残っています。


その後テンシュテットは、
多少のアクシデントに見舞われたものの、
東京と大阪の残り四公演を指揮されました。


この時のサントリーホールでのワーグナーコンサートは、
現在DVDも発売されており、
さらに二か月後にはロンドンで、
あの凄まじいマーラーの5番を指揮し録音もしています。


その後テンシュテットはいくつもの素晴らしい演奏会を行い、
それらの多くは録音もされ現在発売もされています。

残念な事にその後予定されていた1992年の来日公演は、
来日直後に体調を崩しそのまま指揮台に上がることなく帰国されたため、
テンシュテットの日本公演はこの1988年のそれが最後になってしまいました。


すでにテンシュテットが最後に日本で指揮してから、
三十年近くが経過してしまいしまたが、
幸いにして多くの良好な録音が遺されているのが幸いです。

ただできれば
1988年の昭和女子大で演奏されそして録音もされた、
初日市川と同じプログラムのそれも、
いつかCD化してほしいと願わずにはいられません。


あれから22年。凶悪事件を眠らせるな! [凶悪事件を眠らせるな!]


またこの日が来ました。あれから22年です。
既存の項目ですが、
毎年この時期事件を風化させないためにこの場所にもってきています。
いろいろと捜査は続いていますがなかなか犯人に行きつきませんが、
逃げ得だけは絶対許せません。
一日も早く真犯人が捕まり罰られますことを願って。

----------------------------------

「大和田町スーパー事務所内けん銃使用強盗殺人事件」。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E5%BC%B7%E7%9B%97%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/jiken_jiko/ichiran/ichiran_10/hachioji.html

https://matome.naver.jp/odai/2139683975423666701

当時あまりの酷さに憤ったものの
(平成7年7月30日午後9時15分過ぎに発生)
犯人はすぐつかまるのでは?という考えもあった。
しかしそれから世紀を超えもう20年以上たってしまった。
一時犯人を知るという人物がいる話があったが
それも今は立ち消えとなっている。
かなりの長期戦になっているがなんとか犯人を一日でも早く逮捕し
遺族や関係者のためにも解決してほしいものです。

またその翌年におきた「柴又三丁目女子大生殺人事件」
も忘れてはいけない凶悪事件だ(平成8[1996]年9月9日午後4時39分ころ発生)が
こちらも今年で21年目となってしまった

そしてこの事件の4年後の今度は年の瀬に
あの「世田谷一家四人殺人事件」が発生した。
こちらもいまだ犯人は捕まらない。

これらの事件がその後の凶悪事件の頻発
そしてそれは空巣や強盗における凶悪化への引き金になっているような
そんな気がしてしかたがない。

でもそういうことよりとにかくこれらの事件の犯人はなんとかしてほしい。
これでは被害者の親族や関係者の方々も辛いどころではないだろう。

情報や心あたり
または何かのヒントが浮かんだ人は直接警視庁等に連絡をしてください。
凶悪事件をこのまま眠らせてはいけない!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%94%B0%E8%B0%B7%E4%B8%80%E5%AE%B6%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』における「世田谷一家殺害事件」

その他情報提供サイトがあったらコメントに貼り付けていただいてもOKです。

何度でも言います。

凶悪事件を眠らせるな!

因みにこの記事URLの 07-30 はこの事件が風化しないよう
「大和田町スーパー事務所内けん銃使用強盗殺人事件」が起きた日付にしています。(1995年7月30日夜)


1970年代半ばの「わが祖国」国内盤事情+余談。 [クラシック百銘盤]

スメタナの「わが祖国」全曲は、
今でこそCDはもちろんだけど、
演奏会でもそこそこみかけるお馴染みの作品だが、
かつてはあまりそういう雰囲気ではなかった。

確かに二曲目の「モルダウ」は昔から有名だけど、
それ以外はそうでもなかった。

定期公演に関しては、
1968年9月にソ連のプラハの春事件に抗議し、
急遽演奏されたマタチッチ指揮N響による演奏以前には、
全曲がプロオケでやられた記録は無い。


ただ続くときは続くもので、
チェコフィルが1974年来日時に、
FM東京による応募制コンサートを行った翌年には、
クーベリック指揮バイエルン放送響による来日公演で、
「わが祖国」全曲が東京文化会館で演奏され、
これはNHKにより全国に放送されることになった。

そしてこの年の11月には、
コシュラー指揮東京都交響楽団による全曲演奏もあった。

またこの前月には、
前年好評だったノイマンとチェコフィルの「わが祖国」を、
日本からの要請で急遽録音されたものが発売された。

これは二枚組新譜としてはお徳用価格での発売ということもあり、
このレコードはかなり売れた。

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そして翌1976年秋のチェコフィル来日公演では、
東京文化会館で再度ノイマン指揮による「わが祖国」が演奏された。


とにかく1974年のノイマンの成功で、
この曲が売れる事が分かったレコード会社は、
1975年までにチェコフィルやクーベリックの来日記念も込みで、
かつての録音を含めていろいろと再発売をした。

アンチェル指揮チェコフィル
クーベリック指揮シカゴ響
クーベリック指揮ボストン響
ターリヒ指揮チェコフィル
ノイマン指揮ゲヴァントハウス

そして新録音の

ノイマン指揮チェコフィル

これらが1975年秋に日本国内で販売された。


ただクーベリック指揮ウィーンフィルや、
サージェント指揮ロイヤルフィルという、
多少録音の古いステレオものや、
シェイナー指揮チェコフィルといったものは、
当時日本の店頭からは消えたままだった。


その後これらも発売され、
1980年代に入ると
オルフェオからクーベリック指揮バイエルン放送のライブ、
そしてスメターチェク指揮チェコフィルあたりも発売され、
CD時代になるとさらに充実したものになっていった。


だがコンサートではチェコフィル以外はなかなか演奏されず、
日本のオケも後にはたまに演奏することもあったが、
正直それはかなり聴きおとりするものがあった。


1970年代半ば以降の「わが祖国」に関しては、
おおよそそんな状況だった。

このため当時の音楽ファンで、
「わが祖国」に慣れ親しんだほとんどの人は、
ノイマン指揮チェコフィルのレコードか演奏、
そしてクーベリック指揮ボストン響によるレコードと、
バイエルン放送との来日公演あたりが、
ひとつのきっかけや刷り込みとなっている人が多い。


そんな人たちとって
1990年のクーベリックのプラハ帰還時の「わが祖国」のCDや映像、
そして翌年の来日公演における同曲のそれが、
いかに半端じゃないものだったかは、
このことからも多少は想像できるのではないだろうか。


現在でもクーベリックやノイマンの「わが祖国」が店頭に並び、
それが評価されているのはそんな事がいろいろとあったからなのですが、
ただ21世紀になると状況もかなり変わり、
日本のオケもかなりのレベルでこの曲を演奏できるようになった。

2006年のビエロフラーヴェク指揮日本フィル
2009年のエリシュカ指揮の札幌交響楽団

そしてその二人を師にもつ、

2017年のフルシャ指揮東京都交響楽団
(CDは無い)

この三つはその証といえるだろう。


考えてみるとこの40年、
この曲に対してのそれは大きく変わったといえると思うし、
それを半世紀まで拡大するとさらに顕著といえるだろう。

今あらためて1970年代のそれを回顧すると
それは本当に当時からは想像できないものがあります。

ほんとうにいろんな意味で、
日本は進化したといえると思います。


あと余談ですが、
日本は伝統的にチェコの名指揮者がよく来日する。

ターリヒ、シェイナー、グレゴールは来日しなかったが、

アンチェル、スロヴァーク、クーベリック、スメターチェク、
ノイマン、コシュラー、トゥルフリーク、ペシェク、
トゥルノフスキー、エリシュカ、ビエロフラーヴェク、ヴァーレク、
マーツァル、コウト、アルトリフテル、スワロフスキー、
そしてネトピル、フルシャ等々、

ほんとうに多くの指揮者が来日している。

この人たちの中には「わが祖国」全曲を、
日本で指揮してくれた人たちもいる。

そういう積み重ねも今を築いている要因なのだろう。


フルシャの「わが祖国」に行く(7/26) [クラシック百物語]

フェスタ サマーミューザ KAWASAKI 2017
東京都交響楽団

7月26日(水曜日) 19:00 開演
ミューザ川崎シンフォニーホール

ヤクブ・フルシャ 指揮

(曲目)
スメタナ:連作交響詩「我が祖国」(全曲)


1991年の11月2日に、
クーベリック指揮チェコフィルによる「わが祖国」を聴いた時、
この曲を日本のオケが指揮するのは無理とさえ思えた。

だが2006年7月に、
ビェロフラーヴェク指揮日本フィルによる同曲を聴いた時、
日本のオケでもここまで素晴らしい演奏ができると驚いた。

だがこの日の「わが祖国」は、
そういう日本のオケ云々という次元の演奏ではなかった。


かつて音楽評論家の東条碩夫さんは、
プラハフィルを指揮してフルシャが日本で「わが祖国」を指揮した時、
相性は都響の方がいいのではという前提の後、

「ブラニーク」の全曲最後の頂点では柔軟なテンポの動きを欠き、一本調子で単調な終結となった。
 このあたり、フルシャもやはり未だ若いなと思わせるゆえんだが、しかし、都響との演奏だったら、おそらくもっとはるかにしなやかな表情が音楽に生まれるのでは、という気がしてならぬ。」

というコメントを2015年にされていた。


ようするに都響ならさらにできるということだった。

自分はフルシャは2012年のプラハフィルとの演奏しか聴いておらず、
このあたりはわからなかったが、
その東条さんの言葉は前半だけでもよく理解できた。


ハープを左右45度の位置に分けて配置というのはかなり驚いたが、
演奏はそういう意表を突いた編成とは無縁の、
じつに正攻法の真正面から音楽を捉えたものだった。

冒頭から悠揚にして重厚というのだろうか、
チェコフィルよりも肉厚の弦の響きがなかなかで、
都響の特色を前面に出した形の演奏だった。


細かい描写も蔑ろにせず、
じっくりと腰を据えて描いていくそれは、
師のビエロフラーヴェクや、
以前聴いたスロヴァークと読売日響とは違うものの、
そのあたりと並べても遜色のない、
じつに堂々としたものだった。

もちろんそれだけではなく
「モルダウ」での、
農夫たちの踊りの活き活きとした表情や、
「シャールカ」での終盤の、
いきをのむような追い込みなど、
素晴らしいの一語につきるものだった。


しかしほんとうに分厚い演奏で、
オケへの負荷もかなりのものがある。

こういう解釈や狙いだと、
編成の小ぶりなプラハフィルには荷が重すぎる。

かつてこの曲をズデニェク・コシュラーや、
小林研一郎と演奏経験のある、
都響でやって大正解といったところだろう。


余談だが1981年7月に、
コシュラーがこの曲を都響と演奏したその二日後に、
この日の指揮者フルシャが生まれている。


ここで20分の休憩。
正直あの「シャールカ」での追い込みを聴くと、
そのまま後半に突入してもいいような気がするけど、
とにかくここで一息となる。


後半の「ボヘミアの森と草原から」は、
それまでの肉厚の響きをいきなりそぎ落とした、
まるで水彩画のよう澄んだ響きが心地よい。

音のひとつひとつもまるで透かし彫りのようにクリアに響いてくる、
フルシャの非凡なオケのコントロールする力が見事。


そして「ターボル」。

おそらくこれを聴いて多くの人が驚嘆した事だろう。

信じられないくらいのテンションの高さと、
音の密度と集中力が凄い。

ティンパニーの強打も、
外に発散されるというより、
その鉄槌のような響きが、
音の塊の中に凝縮されるように響いていくようで、
管弦ともにこれ以上ないくらいの、
高密度とテンションの高さを兼ね備えと、
濃密かつ絶大な緊張感をもった音楽がそこに築かれて行った・


ただこの「ターボル」が凄すぎたせいか、
ここが全体のMAXとなってしまったように感じられ、
正直最後どうなるんだろうという、
期待よりも不安の方が先に立った。

そして最後の「ブラニーク」。

若干前の曲の濃密な響きの余韻があるせいか、
ちょっとふつうに始まったように感じられたけど、
それでもこの響きはかなり充実したものだった。

途中都響の木管群による水も滴るような詩的な響きが素晴らしいが、
そこから終盤に向かっての自然な高揚感がまた素晴らしい。

確かに最後の頂点に向かって一直線ではあるけど、
かつて一本調子といわれたような感じはなく、
決然とした意志の力でどんどん昇華されながら、
最後そのまま圧倒的な頂点へと到達、
そして見事なまでに輝かしく大きく締めくくった。

それはまさに天から音楽が行進してくるような、
それくらい壮観で圧倒的なものだった。

今年5月に亡くなられたフルシャの師、
ビエロフラーヴェクがこの演奏を聴いていたら、
さぞや喜んでいたことだろう。


これには都響の地力そのものも凄かったが、
フルシャの都響をこの曲に対して、
一瞬たりとも他人事のように演奏させなかった事が、
より強く印象に残った。


演奏終了直後、
指揮台上のフルシャがコンマスの矢部さんに
「どうだった?」
みたいな表情をしていたのが妙に微笑ましかった。


今回のサマーミューザ。

プログラムが発表になった時、
とにかく驚いたのが、
このフルシャと都響の「わが祖国」だった。

二日続きの都響の定期公演でやるならともかく、
一発勝負の、
しかも自分たちの公演以外で、
この真打ともいえる札をきってきたのには、
正直驚いたというか目を疑った。


もうやる前から名演好演になるのは分かっていたけど、
まさかそういうレベルとはまた違う、
文字通りの入魂の演奏になるとは思っていなかった。

確かにより完成度の高い演奏とか、
聴きやすい演奏はあるだろうけど、
ここまで日本のオケによって、
その神髄に真正面から切り込み迫って行く演奏になるとは、
正直予想していなかった。

もっと軽快というか爽快な、
胸のすく様な瑞々しい演奏になるかと思っていただけに、
本当に今回のこの演奏には衝撃を受けた。


ただ残念な事に、
フルシャと都響の関係は、
一端解消になるようだけど、
今度はまた違った形で、
また日本に戻って来てほしい。


こういう演奏ならどこのオケと来日しても、
みんな大歓迎だろう。

確かにかつて都響の公演のドタキャンもあったけど、
311で放射能報道でキャンセルが相次ぐ日本に、
その年の12月に、
ドヴォルザークの「スターバト・マーテル」を指揮するため、
わずか一公演にもかかわらず来日してくれたこと。

そして翌年の3月11日には、
プラハフィルとの演奏会の前に、
追悼曲としてドヴォルザークの「新世界」の第二楽章を、
プラハフィルのメンバーだけでなく、
都響の一部メンバーとともに演奏してくれたことを、
当時の多くのファンは忘れる事はないだろう。


12月の都響とのブラームスとマルティヌー。

そしてこれからのフルシャのさらなる飛躍を祈りたい。




(余談)

しかしこのフルシャの「わが祖国」が発表された時、
真っ先に驚いたのは主催者のミューザ川崎と、
東響やノットではなかっただろうか。

特にノットは自分オケの本拠地の開く音楽祭に、
本来は自らの定期公演でやるような強力なプロをもって、
ミューザに乗り込んでくるのには仰天したかもしれない。

これでは話題も主役もすべてもっていかれてしまうだけに、
ノットとしてもかなり気合が入ったことだろう。

しかもフルシャは、
自分の後にバンベルクにやってきた後任なので猶更だ。

このフルシャ台風に真っ先に敏感に反応したと思われるノットの、
そのフェスティバル初日での演奏は、
これまた強烈な一撃で、
ほとんど定期公演並みの入れ込み演奏だった。

フルシャの「わが祖国」は、
そういう意味で他の公演にもかなりの影響を与えたと思う。
ただこういうことはあまり例がないケースといえる。


それだけに今回のノットとフルシャの両公演を聴いた方は、
ひじょうに稀なケースを体験したといえるだろう。


アレクサンドル・ガウクのインタビュー [クラシック百物語]

1958年4月。

ソ連指揮者界の大御所、
アレクサンドル・ガウク(1893-1963)が、
病気の弟子、ムラヴィンスキーに代わって、
レニングラード・フィルハーモニーの指揮者として来日した。

彼はその時、
招聘元だった朝日新聞のインタビューにいろいろと応えている。

それを以下に記しておきたい。



私の理想的な指揮者といえばアルトゥール・ニキシュである。

彼の私に与えた最初の印象はいつまでも残るであろう。
特に彼に教えられたことはオーケストラというものが、
ピアノのキイのような機械でなく、
生きている人間によって作られているということである。
たまに音楽の解釈について
オーケストラとの相違があり得るということを知らなければならない。
そこでオーケストラを圧迫してはいけない。

十九世紀後半から二十世紀にかけて指揮者に二つのタイプがあらわれた。
その一つはグスタフ・マーラーのタイプで、
もう一つはニキシュのタイプである。

マーラーは偉大な指揮者であったが、
私は残念ながら彼に会ったことがないが、
彼がオーケストラを圧迫するタイプであるという話をきいた。

一生懸命に練習してもオーケストラを圧迫すると、
演奏会当日、せっかくの練習の三割ぐらいは消滅してしまう。

ニキシュの場合はすべてを微笑をもって
オーケストラに納得させて全然圧迫することがなかった。
またクレンペラーのような指揮者も実にすばらしい演奏会をやったが、
練習の時には必ず何か大騒ぎなしにはすまなかった。
それに反してブルーノ・ワルターは
彼のやさしい指揮ぶりと微笑をもって
オーケストラを自分の思うままにさせることに成功している。

ニキシュに与えられた印象が非常に強かったとはいえ、
別に彼をまねしようとは思っていない。
特に彼のあまりにもやわらかい女性的とでもいえるような性質は
今日のわれわれの感覚にはむかない。
例えば「悲愴交響曲」の時にも聴衆を泣かすのみでなく
自分も指揮台で泣いたくらいであった。
しかし、われわれは今日、
この同じチャイコフスキーの曲をもっと堅い古典的な解釈で演奏するようになった。


ニキシュは必ず譜面をおいて指揮したが、
二十世紀になって二、三十年このかた暗譜で指揮するのがはやってきた。
私は大阪で指揮した時、
チャイコフスキーの第四番の交響曲は譜面なしであったが、
悲愴交響曲の時は譜面をおいた。

譜面をおいても実は音楽を暗記してよくのみこんでいるのはもちろんであるが、
やはり場合によって細かい点をたしかめるために譜面をおきたい時もある。
また音楽を十分に知っていても原則として必ず譜面を使う指揮者もいる。
チェコスロヴァキアの有名なターリヒもその例である。



私は現在モスクワ放送交響楽団の常任指揮者を勤めているが、
レニングラード交響楽団とは昔から深い縁があるので、
ムラビンスキー氏が急病で旅行できなくなった時、
こんどの指揮を喜んで引き受けた。
レニングラード交響楽団は世界中の有名な指揮者のもとに演奏したことがあるが、
なかでもニキシュ、フリート、クレンペラー、
ターリヒ、アンセルメ、モントゥ、ワルター、
などの名前を特にあげたい。

この交響楽団は
ソ連のオーケストラの中で一番演奏の仕上げられた団体だといえよう。
その音響が美しく、ダイナミックで熱があり、
演奏表現が細かく、またレパートリーが極めて広い。

彼らの特徴は勉強ずきで、
各楽器の技術上のことはグループが仲間同士で
首席奏者の指導のもとに細かく練習しているから、
指揮者が出てくる練習の時には、もはや技術的な問題はなにも残らず、
ただ音楽をするだけである。

このような方法では三、四回の練習で
他のオーケストラ七、八回の練習を必要とする同じ成績があげられる。



日本の聴衆はたいへん熱心で
演奏会場はまことに寺院のような静けさで感心した。
日本人は音楽が好きで、特にチャイコフスキーは人気があることを知ったが、
演奏中はピアニシモの時だけでなく、
フォルティシモの時でさえなんの音もせず、
ただ熱心にきいていてくれる。
このような聴衆は演奏する音楽家のためにも
すばらしいインスピレーションを与えてくれる。
たまには演奏中、写真機の音やフラッシュがじゃまになったが、
日本に来ている客としてあまり苦情はいうべきでないと思う。


 なお、日本の聴衆について私をびっくりさせたことは
五月十四日、一万四千人のために行う予定の大衆音楽会についてのことである。
この場合むしろ軽いプログラムを作ってシンフォニーを入れないでおいたところ、
聴衆の代表がわれわれを訪ねて、
チャイコフスキーの第四番の交響曲を入れてほしいと申し出てきた。
これは何よりも日本の音楽を楽しむ聴衆の高い教養を物語っていると思う。

尚、このとき余談として


夜中の二時にホテルの近所で、なにか食べ物を売って車を押している人が、
オーボエみたいな楽器をならしていた。


というコメントをしていました。

ガウクとレニングラードフィルが来日したこの時代、
都心のど真ん中の国際的ホテルの側で、
深夜二時に屋台のラーメン屋さんが営業をしていた時代だったことを知ったとき、
最新鋭のジェット機でやってきたレニングラードフィルと、
古きよき時代の屋台のラーメン屋さんというこのコントラストが、
なんともちょっと不思議かつ微笑ましく思えたものでした。


1958年レニングラードフィル日程
指揮者:
アレクサンドル・ガウク、
クルト・ザンデルリンク、
アルヴィド・ヤンソンス


4月15日:フェスティバルホール(指揮/ガウク)
グリンカ/ルスランとリュドミラ、序曲
ムソルグスキー/ホヴァンシチナ、前奏曲
モーツァルト/交響曲第39番
チャイコフスキー/交響曲第4番

4月16日:フェスティバルホール(指揮/ガウク)
グリンカ/ルスランとリュドミラ、序曲
ムソルグスキー/ホヴァンシチナ、前奏曲
モーツァルト/交響曲第39番
チャイコフスキー/交響曲第4番

4月18日:フェスティバルホール(指揮/ザンデルリンク)
チャイコフスキー/ハムレット
プロコフィエフ/協奏交響曲(VC/ロストロポーヴィチ)
ブラームス/交響曲第4番

4月21日:日比谷公会堂(指揮/ガウク)
グリンカ/ルスランとリュドミラ、序曲
ムソルグスキー/ホヴァンシチナ、前奏曲
モーツァルト/交響曲第39番
チャイコフスキー/交響曲第4番

4月22日:日比谷公会堂(指揮/ガウク)
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番
グラズノフ/ライモンタ゜、組曲
チャイコフスキー/フランチェスカ・ダ・リミニ

4月24日:新宿コマ劇場(指揮/ザンデルリンク)
チャイコフスキー/ハムレット
プロコフィエフ/協奏交響曲(VC/ロストロポーヴィチ)
ブラームス/交響曲第4番

4月25日:新宿コマ劇場(指揮/ザンデルリンク)
チャイコフスキー/ハムレット
プロコフィエフ/協奏交響曲(VC/ロストロポーヴィチ)
ブラームス/交響曲第4番

4月27日:新宿コマ劇場(指揮/ザンデルリンク)
ラフマニノフ/交響曲第3番
チャイコフスキー/交響曲第5番

4月28日:新宿コマ劇場(指揮/ザンデルリンク)
ラフマニノフ/交響曲第3番
チャイコフスキー/交響曲第5番

4月29日:新宿コマ劇場(指揮/ヤンソンス)
ドヴォルザーク/交響曲第9番
プロコフィエフ/交響曲第7番
チャイコフスキー/イタリア奇想曲

5月1日:フェスティバルホール(指揮/ザンデルリンク)
ラフマニノフ/交響曲第3番
チャイコフスキー/交響曲第5番

5月2日フェスティバルホール(指揮/ヤンソンス)
ドヴォルザーク/交響曲第9番
プロコフィエフ/交響曲第7番
チャイコフスキー/イタリア奇想曲

5月3日:フェスティバルホール(指揮/ガウク)
ショスタコーヴィチ/交響曲第5番
グラズノフ/ライモンダ、組曲
チャイコフスキー/フランチェスカ・ダ・リミニ

5月5日;八幡製鉄体育館(指揮/ヤンソンス)
グリエール/青銅の騎士、偉大なる都への諸歌
グリンカ/イワンスサーニン、ワルツとクラコヴィアック
ムソルグスキー/ホヴァンシチナ、前奏曲
グラズノフ/ライモンダ、組曲
カバレフスキー/コラブルニョン、序曲
ハチャトゥリアン/バレエ音楽からの組曲
チャイコフスキー/イタリア奇想曲

5月6日:福岡スポーツセンター(指揮/ヤンソンス)
ドヴォルザーク/交響曲第9番
プロコフィエフ/交響曲第7番
チャイコフスキー/イタリア奇想曲

5月8日:名古屋市公会堂(指揮/ザンデルリンク)
ラフマニノフ/交響曲第3番
チャイコフスキー/交響曲第5番

5月11日:日比谷公会堂(指揮/ガウク)
ベートーヴェン/エグモント、序曲
モーツァルト/交響曲第39番
チャイコフスキー/交響曲第6番

5月12日:日比谷公会堂(指揮/ガウク)
チャイコフスキー/交響曲第6番
グラズノフ/ライモンダ、組曲
チャイコフスキー/フランチェスカ・ダ・リミニ

5月14日:東京体育館
グリンカ/ルスランとリュドミラ
チャイコフスキー/白鳥の湖、序曲~白鳥の踊り~ワルツ(以上指揮/ヤンソンス)

チャイコフスキー/ロココの主題による変奏曲(VC/ロストロポーヴィチ)
ドヴォルザーク/スラヴ舞曲第15番
ハイドン/弦楽のセレナーデ
ブラームス/ハンガリー舞曲第1番(以上指揮/ザンデルリンク)

チャイコフスキー/交響曲第4番(指揮/ガウク)


尚、全公演終了後20日に帰国するまでの数日間、
オケは箱根を中心に日本での余暇をたのしみ、
ありとあらゆるところで、楽器、電化製品、服、絵葉書等のお土産を買い、
その量はトラック二台分になったそうです。
(特に広島では絵葉書を買い求める団員が多かったのですが、そのうちの一人が「こんな美しい街が一瞬に消えたことは恐ろしいことだ」というコメントを残しています。)



このときの来日公演のCDのひとつ。
08_l.jpg

アニメイベントにおけるファンとフーリガン [アニメ]

本当のところは正確には分からないけど、
沼津「ラブライブ」上映会でまた騒ぎがあったらしい。

今回かなり規制が緩やかだったというけどそれが裏目に出たようだ。

簡単にいえば善意を悪意が踏みにじったというところか。

大洗でさえこういうのには未だにかなり神経尖らせてるのに、
人数が増え規制が緩めば、
こういう状態になるリスクは上がるわけで、
そういう意味では申し訳ないけど今度の沼津夏まつり前に、
ある意味いい教訓になったのかもしれない。

ただ高い授業料にはなりましたけど。

ただしこのことは主催者が、
いままで良心的なファンにしか会ってなくて、
そのため信用していたという事もあったのだと思うので、
それひとつで主催者を責めるのは酷。

問題は川崎での事件があったにもかかわらず、
未だに反省しない馬鹿者がいるという事。

これはもうファンではなくフーリガンといっていいので、
これからは即刻叩き出していい。

だいたいフーリガンは普段聖地とかにはいかない。

理由は破壊が本来の目的のフーリガンに、
イベントの無い普段の聖地など意味がないからだ。

主催者がこういう輩と会ってないのは、
そういう必然が前提としてあるからだ。

なのでこういうイベントのみを、
ピンポイントで狙い撃ちしててくる。

ただ自分が暴れ壊したいだけの理由でです。

フーリガンにとって、
別に対象はラブライブじゃなくてもいいんです。

ただ目の前に壊しがいのあるイベントがあって、
それをラブライバーのせいにすれば自分たちのせいにならないと、
本気で思ってる最悪な人たちなので、
強制退場させて当然だと思います。
サッカーだってファンやサポーターとこういうフーリガンは区別してますから。

もう主催者が毅然と対応すべき時期にきてると思います。

そうしないとラブライブそのものが廃れます。

彼らフーリガンはラブライブが廃れても関係無いし、
そうなれば今度は次の標的を決めそこで暴れて壊すだけです。

彼らをファンや同じライバーと錯覚しないでください。
暴れやすいためにそう見せてるだけなのです。

何度も言いますけどファンやサポーターとフーリガンは違う。

ぶっ壊し暴れるのが目的のフーリガンは暴れたら即退場。
それでもダメなら警察行きです。

サッカーとそのあたりは同じと考えていいです。

それやらないともっとデカい事故が今後絶対起きます。
彼らは「ラブライブ」や「ガルパン」も、
もっと言えば「君の名は」あたりとも区別してませんから。


もう一度ハッキリ言いいますが、
彼らフーリガンを同じファンとか同じラブライバーと思ってはダメ。

彼らはラブライブには何の愛着もありません。
ただの壊すための対象物です。

ラブライブがそれで廃れたら、
今度は平然と他の作品のファンを装い、
そのイベントをぶち壊しに行くでしょう。

まさにイナゴの大軍です。

このあたりぜひ今後ラブライブだけでなく、
似たような企画を主催される方に徹底してほしいです。

そうしないと一般のファンや市民が巻き込まれ、
取り返しのつかない事態になる危険性があります。

今後ファンとフーリガンをぜひはっきり区別し対応されることを強く要望します。

沼津にはプロサッカーチームもあるので、
そういうノウハウは多少いただけるのではないかと。

ファンに寛大なのはありがたいですが、
フーリガンにまで寛大にすると、
そこはテロのやりたいに放題になります。

彼らは自由と無秩序の区別などありません。

というよりとにかく自分がスッキリすれば、
どれだけまわりが迷惑しようとも、
とにかく自分本位に好き勝手に暴れ壊しまくります。

これをファンなどといったら、
一般のファンがあまりにも可愛そうですし失礼です。

正直アニメ系のイベントはこういうことに寛容すぎて、
対応が後手後手になっているという気が正直します。

確かに警察の厄介というのはあまりいい評判にはなりません。

ただ「一般のファンや市民をフーリガンから守るため」と、
ハッキリ宣言し毅然とした対応をし、
事前に約束事をしっかり一般にも徹底していれば、
一時的にはおかしな輩や、
フーリガンの御仲間あたりがネットで煽るかもしれませんが、
こちらもしっかりと対応発信していけば、
事実はしっかりと伝わっていくはずです。


ただ主催者がそういう自信も気概も無いというのであれば、
これからはそういう方々はアニメ系のイベントを、
あまりやらない方がよろしいかと思います。


あとこういうことに一般の受け手側も、
発信元が不確実なものにまで一喜一憂するのではなく、
ファンとファンを装うフーリガンを明確に分けて考え、
これからをみていかないといけないと思う。

そうしないとアニメのイベントは、
こういうフーリガンの温床となり、
ファンだけでなく声優さんの安全すら守り切れないという、
かなり危機的な状況になりかねないものがあります。


ファンもそして主催者側も、
フーリガンの蛮行を見かけたら、
ファンはすぐに近くの関係者の人に通報、
関係者はすぐに毅然と対応をフーリガンにとりましょう。

危ないと判断したら警察も即よんでいいと思います。

それが自分だけでなくファンや作品を守る最善の行為ですから。


もしこれがしっかり機能したら、
横の連絡網でこれらの人たちに対する対応も、
かく主催者や警察もとりやすくなることでしょう。

暴れ得、壊し得はを助長するのは、
ファンにとっても作品にとっても悲劇です。

ぜひこのあたり皆様の立場ごとにご一考願います。


最後に恐ろしい事を言わせもらうと、
自分がもしフーリガンだったら、
今度の沼津の夏祭りほど壊しがいのあるイベントは無い。

おそらくどんな手を使っても暴れるだろうし、
それでイベントがすっ飛んでも知った事じゃない。

しかも後は全て「ラブライバーのせい」にして逃げることができる。

主催者は今から毅然とした対応と注意喚起、
そして警備と導線の徹底をお願いします。


しかしなあ、
なんでこんな事をまたあらためて言わなければならないのかと、
確かにいろいろと明文化してないことも問題だけど、
だからといって書いていない言っていないからといって、
何やってもいいのかとなったら、
それこそもう無秩序そのものとしかいいようがない。

ひょっとしたら威力業務妨害罪にひっかかるような、
そんな案件もでくるかもしれない。

そうならないためにも、
なんとかしてほしいところです。


あとこれも当たり前ですが、
フーリガンの場合、
最初からぶっ壊そうとしてきているものと、
途中からノリでそれになったものとがいるけど、
迷惑をかけられることには変わりない。

このため起きてからの処罰が原則になるけど、
やはりその前にある程度の明文化もしてほしいです。


今度の沼津夏祭り。

もし今まで通りに規制が緩かったり、
毅然とした対応が現地で当日できなかった場合、
自分がフーリガンだったら絶対標的にします。

それくらいほんとに心配です。


あとは余談。

沼津はふつうの人たちがふつうの街にふつうに住んでいるだけなので、
こちらもふつうに最低限のマナーを守れば何の問題ない。

ただ一部で「鎌倉の常識」が「沼津の常識」ではない部分があったりするので<

そういう所はサポートとして明文化してほしいなあと、
大失敗した自分なんかは強く思うわけです。

枠をつくるというより補助してほしいという事です。

そうしないでいろいろとやってしまうと堅苦しくて長続きしません。

大洗の現在はそのあたりをかなりくんでいると思います。

ただその大洗もいろいろ失敗して今に至っているので、
沼津もそうは簡単にはいかないでしょう。

シンプルなだけにたいへんな事です。


しかしなんでふつうの事がふつうにできないんだろう。

これ言い出すと話が元に戻りそうなのでここで終了。